イカは泳ぐ

“脳は出力依存のアーキテクチャ

(松本元『愛は脳を活性化する』岩波科学ライブラリー、岩波書店、1996年)

 

非常勤で来られていた松本先生の講義を受けずじまいにしたことは、一生の後悔のうちのひとつ。「ぜったい好きだと思うから」「おもしろいから一回だけでも」と友人それぞれから言われながらも都合をつけず平積みされた参考図書だけ購入して後になってから読みました。

講義に出ていた友人いわく、神経の研究には巨大な神経細胞をもつヤリイカがよく使われているとかで、脳型コンピュータの開発を研究されている松本先生はヤリイカ神経細胞の切り出しにあたっては自他とも認めるゴッドハンドの持ち主だとか。

ヤリイカは水槽で飼育できないために制限が多く、それならばと先生はご自分でヤリイカを飼育できる水槽を開発してしまわれたそうですが、水槽開発に苦節されている時期に悪夢だか白昼夢だかで天井からイカがばらばらと降ってくる夢を見ていらしたとか。

 

以来わたくし、脳と聞けば「天井からイカ」。

先生がおそらくうなされながら見ていらした夢とは遠く離れたところで、薄青色の幻想的な感じです。

おかげでその後の人生で「脳だから」「脳なので」脳が頭が神経がと言われると天井からイカがぽたぽた降り落ちて床にたまっていくのを想いうかべたり。

(患者さんが何を考えてるかなんてわからなくて当然です。イカですからイカ

 

先生のご著書の題名は「愛は脳を活性化する」なんてぶっとんだ物言いのようですが、たいへん真面目なおはなしです。

基本的にネットワーク理論、意欲のもんだい、関係欲求、どのように脳を構築していくのか。

ご本のなかで、事故にあって脳を損傷され、そこから回復されたひとの話があります。

脳が物理的に失われていても快情報を受け取ることができる、それによって入力回路がつくられやすくなる。そして入力がなければ出力はうまれない、という考えもよくわかるように思われます。

語りかけられることなくしては、ことばはうまれない。

ことばがうまれるには、語りかけられなければならない。

そうして脳はつくっていける。

バイオサイコソーシャルという言葉をもちいるならばコミュニケーションのつくりかたから脳の治療ができる、脳をまもり脳をつくっていける。

臨床そのもののはなしのように思われます。

 

松本先生のご研究から二十数年、いまはどんな研究がなされているのでしょうか。

いまないものはつくればいい、誰もしないのなら自分がすればいい、必要なことは自分で調べて勉強していけばいい。そんな学風そのまま受講には専門分野のへだてなどなかった学部の授業での話だったと思うので、専門知識のないわたしの解釈ではあってもそうは見当外れではないのではないかといつも思いながら暮らしつづけています。

 

そういえば松本先生はヤリイカに個体識別されるようになりイカと友達になれたとおはなしされていたそうです。たしかに大事に飼育してもらって神経切り出されて残りの身はお刺身で食べてもらって友達冥利につきますね。

イカは泳ぎます。

はるはザムザで

ひさしぶりに通院しました。

いま咲きほころびつつある桜もまだ固く沈黙していたころ、まだ梅の花の季節でしたが。

いまも収束しないコロナ禍ですが突然浦島太郎を地で行くことになって先生のお顔を見てひとしきり話を聞いていただいて一息つきました。

この歳でこうなのだからもうこのままかとよれよれと言っていたら今だと90歳ぐらいはとほわりと言われてあああと視野の狭さを知らされました。

そういえば80歳でも海馬は増えるとむかしお世話になった先生に励まされたことがありましたっけ。

診察室から患者さんとご家族の方が息をつかれて穏やかな顔つきで出て来られたのをお見かけしてわたしも同じかと思いました。いつものように電話診療のつもりでおられた先生に不意打ちで時間を取ってしまったのですが、通院で必要なものをいただいたように思います。

 

いまの暮らしがあるのは先生のおかげだと主治医の先生に感謝したのですが、難民のわたしの手を取って隣に座らせて食べさせ眠らせて息をする場所をくれたひとたちを想います。

とりわけ「いろいろあったけど、こうしてひろがっていくつながりもあるのだし。せっかくここまで頑張ってきたのだから、勉強していこう」と潤んだ目でことばをくれて、わたしのために橋を架けてくれたしなやかな手の持ち主のことを。

なかなかお礼が言えません。

 

ケアの倫理が昨今いわれているようですが。

贈与と交換と分有-分配が倫理の三本柱というのであれば、贈与は相手に負債の感覚を負わせる、贈与は所有の確認ではないのか…という議論がありました。

以前通っていたゼミでパッショネイトな福祉の教育者の方が「してあげる」と「かわいそう」を絶対言うなと学生に教えているとパッションをもっておっしゃったことばがいつも忘れられません。

贈与には返礼義務がともなうために、おたがいさまだの助け合いだのと言われたら、わたしには返せるものが何もない、と思ったこともありましたっけ。

 

そのひとたちにもだれにもわたしは返礼義務など求められてはいないのです。たぶん、もらいっぱなしでいいのでしょう。師匠が「切るものがないのでキリストではないけれども」と手でちぎりわけてくれたパンのように。

目の前の苦しむひとに自分ができることをする、それはあたりまえのことだからとそのひとたちは言うのでしょう。それをしなければ自分がやるせない、そういうものなのだと手前勝手におもうのですが、どうしても今のわたしがわたしの生活がそのひとたちに負うところが大きくて、うまくお礼が言えないといつも思うのです。

 

足を向けて寝られないねと家人が言うとおりだと思いながら足を向けてもよい方向を考えたのですがこれがむずかしい。

ひっくりかえったカフカのザムザのように天井に足を向けて寝るならどうかと思いついたところです。

 

松の香りに

数年ぶりです。

アクティヴィストの友人に不定期でも書いたらとすすめられてリハビリとして始めたのですが書けなくなったのか書かなくなったのかそのままほったらかしておりました。

ブログの一方通行なメディア特性が性に合ってはいるようなのですが。

一年ぶりに書店へ行って一年遅れで開いた雑誌でM先生に「サバルタン」といわれたような気がしました。プラットフォームでバルタンさんのことなどおしゃべりしたことも昨日のことのような気がしていますが、とってもサンパなM先生とおはなしすると仏語話者ふうの身ぶりになってうふうふ楽しかったのを思い出して楽しくなっています。

 

年が明けてしばらくしてからしばらくぶりの土地で松の香りを嗅ぎました。

大気はさえざえと澄み山林にうねる風にざわめく木々に家人に連れられ歩く子たちの声が聞こえる。

掘り起こされた松の根の香りを呼吸して生き延びてきたと思いました。

油の強い松の樹香は刺激が強く鼻腔からまぶたの裏にぴりりと刺激が走るのを予測しましたがそんなことはなくてただかぐわしい。

思うぞんぶん呼吸をして風に巻かれて過ごしました。

ここの土には松がよく合うと聞かされていたけれどここに遊ぶこどもたちにこの香りを呼吸してそしてどこかで憶えておいてほしい。

雨の降りはじめは雨音ではなくこの土が匂いたつのを肌で感知することだと知っておいてほしい。

身体こそメディアなのだから…と思いながらも、新田次郎『アラスカ物語』で海獣と精霊の海から離れてカリブーを食糧とするべく内陸に移住しようと移動したひとたちが森の松の香りに心身を病む話を想い起したり。

すべてを身体の個別性に縛りつけては語れないものがある、なぜ言葉が通じるのかと言えば個体差こそあれ人間の身体はそんなに変わらないからだ…なんて話をしていたこともありましたっけ。

アイデンティティというものは排除する他者があってはじめて成立するものなのだと教えられたことがありますが、何を同じくして何を同じくしないか。

生政治があらわになるプラットフォームの設定がいつも気になるところです。

 

カガクシャの言うことは

ナノレベルでみる手のひらは向こうがわまで透けていた

ほらね 網の目みたいでしょう 人間の身体は すけすけなんだよ
人間の身体はね まいにち 入れ替わっているんだ
だからまいにち食べたり飲んだりしなくちゃいけないんだ

手のひらの向こうがわを見ながら語りかけられた言葉を 
この手のひらを見ながら幾度おもったことだろう
外来の待合で 車内で 日常の動作のふとした時にも
うだるように暑い日も 静かに暗く冷える日も 

人間の身体はね 物質の化学反応 酵素ひとつとってもそのひとそのひとで違う それが個性

個性ということばの使われ方をはじめて納得しながら聞いた

ぼくはカガクシャだからさ 脳内の物質のやりとりひとつみても非常に複雑で頭が下がる
いちど悪くなってそこから良くなってくるのに*年 その3倍はみておいたほうがいい
ぼくはカガクシャだからさ カガクシャの言うことは聞いておいたほうがいいよ 

人体の皮膚や骨が半年ほどで入れ替わるのだとしたら
わたしの骨も皮膚も ここでの呼吸で日々いれかわりつくられて
あなたと日々食事をして あなたと眠り あなたと話し あなたに触れ あなたの気配を感じ 匂いを嗅ぎ
あなたとの時間で 
いまの私の皮膚 私の骨 私の血ができているのなら

カガクシャの言うことは聞いておいたほうがいい

ケアの時間

浜渦辰二「ビジネス・倫理・ケア」西日本哲学会編『西日本哲学年報』第17号、2009年10月5日(93-110頁)より抜粋
*「はまうず・ホームページ」(http://www.let.osaka-u.ac.jp/~cpshama/gyouseki/gyou-ha2.html)PDFにて全文公開


…しかし、残念ながら、鷲田の議論は、「待つことの放棄が〈待つ〉ことの最後のかたちである」、「予期ではない待つとしての〈待つ〉」、「待たずに待つこと」、「持っていると意識することなくじっと待つこと」、「〈待つ〉以前の〈待つ〉」「待つともなく待つ」といった、さまざまな〈待つ〉ことをめぐる考察を解釈することに専念していて、〈ケアの時間〉を解明する方向には向かわない。また、私見によれば、鷲田は待つ側の姿勢・意識に専念しており、待つことが、私と他者との「間」で行われる間主観的な行為であることには余り焦点が当てられていない。待つことは、私と他者が言わば歩調を合わせることであって、一方的な行為や姿勢の問題ではないはずで、「待つこと」は、「待たれること」や「待たせること」とセットになって行われる行為であるはずなのだが、そのような点にも触れられてはいない。〈ケアの時間〉は、そのような間主観的な行為のなかで考えられねばならないだろう。

…(中略)…

…こうして見ると、〈ビジネスの時間〉と〈ケアの時間〉とは、同じ次元での時間をどう配分するかという問題ではなく、むしろ時間の異なる次元のあいだで私たちがどう生きているかという問題であると言わねばならない。「聴く」や「待つ」において相手に「時間をあげる」というのは、あくまでも「日常生活の時間」を支配している〈ビジネスの時間〉から見られた限りの物言いであって、同じことが相手と「時間をともに過ごす」ことと言われる時、それは〈ビジネスの時間〉と〈ケアの時間〉がぶつかるとともに結び合う場面を現し、そして、それは〈ケアの時間〉が本来流れている次元である「深層の時間」への通路となる。…(中略)…異なる次元に属する〈ビジネスの時間〉と〈ケアの時間〉とが、一方が他方を還元することのできないような、人間の全体性を表しているのであった。まさに、「正義の倫理」と「ケアの倫理」で見たように、両者が統合されることによって、人間の人間としての成熟が達成されると言うべきだろう。……

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それだけ私の時間をあなたにあげたのだから、といえばそれはビジネスの時間。
それだけの時間を私はあなたとともに過ごして生きたのだから、といえばケアの時間。

先日のぞかせてもらった研究会で、まなざしの澄んだある先生にずんずん接近していきました。
話下手に緊張もあいまってわたわたと話しはじめ、そのままあれこれと話し続けたのですが、
いつのまにか何を話そうどう答えようといった意図がなくなり、手ばなしになっていました。
立ちかたも姿勢も変化して、胸がひらいて楽に立っている。肩が凝っていたことに気づく。身ひとつ、そこにある。

ご専攻はと尋ねられて、唐突なアプローチをとったまま自己紹介もないままだと気づきましたが、ひと言で了解されたのがわかる。
講演のなかでは主観的、客観的、間主観的の3つの視点…などとさらりと簡潔に話していらしたけれども、
<私>が成立する以前の経験を、すっと先生は見ていらして、そして私もすっと見るのか、と思う。
ちか、ちか、ちかと小さな火花が散るように、その瞬間その瞬間に消えては生起する<私>が見えてはまた消える。
「何処に於いて立つか」というならば、その身ひとつ。

陽光を浴びるわたしの身体があなたに影を落とし、わたしに吹きつける風はあなたに触れる風となり、
あなたのあたたかな体温にわたしの呼吸はふわりやわらぎ、あなたの痛みのやどる呼吸にわたしの身はひやりこわばり、
わたしの身のこわばりにあなたの身はかたくなっている。その身ひとつ。

自分が相手に見せるぶんしか、相手は自分に見せないのではないか…などといつかNさんが話していらした言葉をおもうのですが(私の創作かもしれません、Nさんごろく)。
「見られることなく見ることは非−倫理的」とはメルロポンティの言葉でしたかな。

寄り添うことは、寄り添われること、寄り添わせること。
寄り添われることは、寄り添うこと、寄り添わせさせること。
そうしてエビぞりの時間を生きて背中を痛めることだってありますね。

わたしの好きなおじいさん ほんやくぶんがく編

その1 ゾシマ長老さま@『カラマーゾフの兄弟
「ああ、慰められぬがよい、慰められることはいらぬ、慰められずに泣くがよい」などと言われたら泣きます。長老さまー。米川正夫訳で読んだおかげです。
「おまえさまを一目おがみに参じやした。わしはもう何度もおまえさまのところへまいりやすに、お忘れなさりやしたかね?もしおまえさまわしを忘れなされたら、あまりもの覚えのいいほうでもないといえる。村のほうでおまえさまがわずろうていなさるちゅう話を聞いたもんだで、ちょっとお顔を拝もうと思って出向きやしてね。ところが、こうして見れば、なんの病気どころか、まだ二十年ぐらいも生きなさりやすよ、ほんとうに。どうか長生きしてくださりやし!それにおまえさまのことを祈ってる者も大勢ありやすから、おまえさまが病気などしなさるはずがござりやせんよ」なんて言ってくる村のおかみさんと同じく私も「どうか長生きしてくださりやし!」と思うのですが、亡くなってしまわれてすぐ腐敗臭がしたことで物議をかもしました。長老さまー。

その2 ブルゴスのホルヘさん@映画「薔薇の名前
ウンベルト・エーコの原作をめくって図をみても迷宮の文書館など僧院の建築からして想像しがたいのですが、映画は映像なのでわかりやすい。
幻のアリストテレス詩学」第二巻、毒をしみこませた頁をみずから破り食べて死んでいかれる盲目の文書館長ですが、ボルヘス先生がモデルとなっていることで有名らしいです。
「神は笑った」なんて文書は禁書にして頁をめくって読んだ者が死に至るように毒まで塗って秘蔵しても焚書してしまうことができない、そんな文書の徒たる魂がすてき。あの時代の紙は喉につかえそうです。百年も経たないのにひどく劣化してしまう酸性紙とは大違い。
経年変化で「手に取るとぺりぺり破れてしまう」「触れた指の形に崩れてしまう」などと耳にするそんな近代の書物というのも、時効のついた禁書のように思われます。書物も物質ですからなー。著作権がきれたころに物理的に読めなくなってしまうとか嫌ですなー。
現代ではホルヘさんが理想とされるアーカイヴとはどんなものになるのでしょうか。
近未来にホルヘさんがいらしたらクサナギモトコと戦うのでしょうか(←師匠の影響)。ふーぬ。

その3 ホセ・アルカディオ・ブエンディアさん@『百年の孤独
とてもまともなおじいさんに思えてしまうのですが、どうなのでしょうか。
わけのわからぬ言葉を話すようになってそれがラテン語だと判明したあとも問答すれば理性的、その理性にふれてご自身が揺れてしまった神父さんが近寄らなくなってからも、縄をとかれてもそのまま、時が経つにつれますます冴えていかれる感じがします。
栗の木にくくりつけられたまま息子のお嫁さんのレメディオスさんが毎日シラミを取ったり身のまわりの世話をしたり。
晩年の平穏さがとてもまっとうに思えてしまうのですが、どうなのでしょうかな。

小説そのものは読んでいてセンテンスごとに視覚イメージがぱたぱたと畳まれていく感じが初読時にとても新鮮だったのですが、どの人物をどのように書くにもそこに作者の愛が感じられます。ざくざく書いていてもなんだか何ごとも愛おしむような繊細な柔らかさがあって、不思議な魅力。
それでいうなら『百年の孤独』よりも『コレラの時代の愛』がいいですな。延々とつづく人物の陳腐さへの愛。翻訳のおかげもあるのかも。

さばくのでりだ

井筒俊彦『意味の深みへ』岩波書店、1985年 印刷・三陽社 製本・牧製本
デリダのなかの「ユダヤ人」」(←初出:『思想』1983年9月号)より抜粋(96頁-97頁)


 「場所」(lieu)とは、enracinement(=rootedness)を意味する、とデリダ自身が言っている。大地にがっしり根を下ろすことだ。どこかに固定した場所を据えつけること、それは、デリダにとって、権力(プーヴォワール)と暴力(ヴィオランス)に直結する。権力と暴力につながる「場所」の否定、「非・場」、を己れの立場とすべく、彼は「砂漠」に行く。「砂漠」こそは「非・場」の場。一定の場所というものは、そこにはない。
 「砂漠では、何一つ花が咲かない」(ジャベス)。砂漠はもの「不在」(absence)の場所だ。が、それはまた同時に、「場所の不在」(absence de lieu)でもあるのだ。きっかりと境界線で仕切られた場所は、どこにもない。自分の位置を据えつけるべき特定の場所はない。「一つのきまった場所、一つの囲み、他者を排除する地域、一つの特殊地区、ゲットー」はここにはないのだ。常に、どこまでも「彼方」であるような場所、経験世界には絶えて実在しないような場所、無限の過去であると同時に、無限の未来でもあるような場所。「砂漠」には「非・場」の夢がある。…


※原文よりルビ表記を変更、傍点を削除

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美しい本。
手に取りやすくしなやかで扱いやすく、それでいて字体が目にあざやか。
刻まれた文字をたどり読む。コトバが身体を刻む。書物の律動。