おひさしぶりです

すっかり更新から遠ざかっておりました。
書くことの距離がつかめません。
いくら眠っても眠りたりない9月は過ぎて、とっぷり10月。
金木犀も甘だるく匂います。

調子はよくないです。夏は終えたのだけれども。
まあ、仕方がないのですが、顔は痺れ、目は見えにくい。でも、前年度比と言うならば、とても過ごしやすく楽になっています。昨年のこの季節、一緒に居てくれたひとたちを想ったり。そう、昨年よりはずいぶんまし。そう思うと、どっしり疲労を覚えるのだけれど。そうして季節を年数を指折り数えて生きるのは、なにかが違うように思えるのだけれど。

先月末は通院続き、複数科受診なのですが治療は最適なのでしょう。
神経内科の診察で「だんだんもとに戻っていくと思うよ」と言われた言葉がほわり、診察室を出て歩きながら、ほこほこほかほか、肩から腕がほこほこ、日向ぼっこしたようなあたたかさが不思議でした。すっと視界がひらいて代謝のよい感じが素敵な先生に、私もいきいきするからでしょうか。

満月の夜、月の光を浴びて歩きました。
お茶をいただきながら、肩こりのこわばりにもがいていると、手をとられ肩を触られハーブを塗られたりつぎつぎと癒されました。
触れられ、触られると、はっとします。指先から手のひらから、その人がわかり、自分がわかります。ダンサーのSさんが肩の筋肉をじんわり押してくれましたが、Sさんの指のひらから、Sさんの足の裏が床に着いている感じがわかる、Sさんの足裏が見えるようでした。よく練れた身体。

「相手の身になって」というのは、たいへんむずかしい。
「人間は、タマとそれを宿すカラからできていて、タマがカラに宿っているあいだは生命の通っているカラ全体をミ(身)という」(*)そうです。
「からだとこころ」という言葉がありますが、からだは殻、こころは魂。
「相手のからだになって」「相手のこころになって」とは言わないのです。
日本語のゆたかさを知らずにいます。

(*)益田勝実「古代人の心情」相良亨、尾藤正英、秋山虔 編『講座 日本思想 第1巻』東京大学出版会、1983