2011-12-01から1ヶ月間の記事一覧

せいどとじっかんと私 その2

久野収「三木哲学におけるレトリックの論理について(続)」 (「思想」No.520、1967年11月号 )より抜粋…わが日本の共同体的伝統は、レトリックのロゴスによってささえられてきたのではなく、パトスの直接的共同によってささえられてきたのは、周知の事実で…

せいどとじっかんと私

久野収・鶴見俊輔『現代日本の思想』岩波新書(1956) 「日本の観念論 ―白樺派―」より抜粋…高村光太郎もまた白樺的な人物の一人である有馬頼寧に指揮された初期の翼賛運動のよびかけにたいして、その善意の純粋性を信じて、身を投じたのである。そして、この…

なまのてつがく

…前世紀の末以来哲学においては、<真の>経験を獲得しようとする一連の試みがなされた。この<真の>経験は、文明化した大衆(マッセ)の画一的で不自然な生活に沈殿する経験と対立するものとされる。これらの勢いこんだ試みは普通一貫して「生の哲学」とい…

あめはふるふる

Rappelle-toiと呼びかけられ雨を浴びながら詩人の言葉を聴きました。 水底に眠ることばへ沈みこむように潜りすすみ、泳ぎきったのではなく流されてしまった、そんな講義。 記憶しているのだけれども忘却していることばを想いました。ベンヤミンに「歴史哲学…