松の香りに

数年ぶりです。

アクティヴィストの友人に不定期でも書いたらとすすめられてリハビリとして始めたのですが書けなくなったのか書かなくなったのかそのままほったらかしておりました。

ブログの一方通行なメディア特性が性に合ってはいるようなのですが。

一年ぶりに書店へ行って一年遅れで開いた雑誌でM先生に「サバルタン」といわれたような気がしました。プラットフォームでバルタンさんのことなどおしゃべりしたことも昨日のことのような気がしていますが、とってもサンパなM先生とおはなしすると仏語話者ふうの身ぶりになってうふうふ楽しかったのを思い出して楽しくなっています。

 

年が明けてしばらくしてからしばらくぶりの土地で松の香りを嗅ぎました。

大気はさえざえと澄み山林にうねる風にざわめく木々に家人に連れられ歩く子たちの声が聞こえる。

掘り起こされた松の根の香りを呼吸して生き延びてきたと思いました。

油の強い松の樹香は刺激が強く鼻腔からまぶたの裏にぴりりと刺激が走るのを予測しましたがそんなことはなくてただかぐわしい。

思うぞんぶん呼吸をして風に巻かれて過ごしました。

ここの土には松がよく合うと聞かされていたけれどここに遊ぶこどもたちにこの香りを呼吸してそしてどこかで憶えておいてほしい。

雨の降りはじめは雨音ではなくこの土が匂いたつのを肌で感知することだと知っておいてほしい。

身体こそメディアなのだから…と思いながらも、新田次郎『アラスカ物語』で海獣と精霊の海から離れてカリブーを食糧とするべく内陸に移住しようと移動したひとたちが森の松の香りに心身を病む話を想い起したり。

すべてを身体の個別性に縛りつけては語れないものがある、なぜ言葉が通じるのかと言えば個体差こそあれ人間の身体はそんなに変わらないからだ…なんて話をしていたこともありましたっけ。

アイデンティティというものは排除する他者があってはじめて成立するものなのだと教えられたことがありますが、何を同じくして何を同じくしないか。

生政治があらわになるプラットフォームの設定がいつも気になるところです。