東風吹かば

通院日でした。
春の嵐が過ぎたあとはこころもち西風も澄んだようで花粉もピークを越えたとか、肩の構えがすこしばかりゆるみます。
冬を残した景色のなか、病院へと気持ちよくゆらゆら歩いて向かいました。
医療者らしき白衣をまとった男性が駆けるように外へと出てこられたので、ドアの脇へと身を引いたのですが、目の前にドアを押さえている手が見えました。静脈が浮いた手の甲。目を上げると目が合い、こんにちはと早口ではなく挨拶をされました。ほんの一瞬、私に向けて差し出された時間。私の前に置かれた一秒。その一秒が開いて、あなたとわたしのあいだの時間がながれる。あなたの前にわたしが、わたしの前にあなたがうまれた瞬間。
その方のその身体の現場性、注意の止まりかたが見事。そして私が促されることも急かされることもなくくぐるように中へと入るのをそのまま見届けられてからドアをはなして大急ぎで駆けていかれたのが見事。

場所は病院、私は患者なので、このあたりは常識ともケアとも呼ばれるのでしょうけれども。
身に付いたあたりまえで気持ちよくドアを開けていただいたことが嬉しかったりします。
ドアの重さと形状、そして周囲のひとの状況とタイミングにいつもひやりと緊張する。そこを踏み出す。ドアを前に、まずはドアを観察。ひつような動作と動作にともなう感覚を予測。身体感覚に集中する、緊張と痛みに奥歯をかみしめ動作がもたらす感覚に背中まで息が詰まる、身体を割り込ませドアを抜ける。どっと疲労感と冷や汗。荒い息。そんな記憶を反復してしまう確率のたかいドアだったので、よけいに素敵に思えたのかもしれません。
ドアを開けること、ドアを開けてエレベーターのボタンを押してどうぞと挨拶することにまつわる困難が、私の社会生活での大きな変化、「できる/できない」そして固定することのない「できる」の喜びと苦しみを揺らぎつづける日常の痛みのうちのひとつ。
そんな日常を生きている、でも、どっちの世界も知っているんだ、それを忘れないでいるようにしている、そう教えてくれたひとが私にそっと見せてくれた手を想います。楽にできるときはホイホイできますもんなー。

診察室から出てきた私に、待合椅子のほわりとやさしげな患者さんが「どうぞお大事にしてください」と歌うように言ってこられました。ふるふるやさしいふるえをおびた目で見あげられじっと見つめられ、私も見おろし見つめかえしながらふっと口もとがほころんで、ありがとうございますと痛めた喉でお礼を言いました。その患者さんのやわらかさも私のかたさもこころにしみました。

帰宅してからすこし眠りました。睡眠不規則。横たわると足からぞーっとした痺れ。冷えていました。疲弊していました。
もわりと匂いがして何かが記憶にあがってきました。この匂いこの感覚はなんだろうと思ったら、先生の匂い。
診察のあいだ頭部から背中、腕の皮膚で感知していたのでしょうか、もったりとした湿度までよみがえります。
おそらくは診察室の匂い、けれども私には先生の匂いとして刷り込まれているのでしょうか。
でもなんでしょう、この質料感。香りというより、気配としての匂い。嗅覚ではなく湿度温度をふくめた触覚。
長く診て来ていただいてきたのにそうと意識したことがなかったので不思議な感じです。
姿がみえなくとも匂いで存在が知れるなんて梅の花のようですな。
きほんてきな動物のコミュニケイションなのでしょうか。いいえ動物でなくとも、「ヒトとヒト」のお猿さん社会の話でなくとも「ヒトとロボット」のコミュニケイションだって成り立っていく、そんな思考がすすんでいけば、ロボットも匂いたつようになるのでしょうか。

かつての通院先の先生は、鼻腔にすっとしみる揮発性の薬品の香り。
朝の空気のようにひんやりとして、自然光がしろく明るい診察室のかんじ。とてもよく通じてしまう、先生とのおはなし。光や風をうけてやわらかに姿を変えていく植物に触れるような、先生のまなざし。意識があってもなくてもこの先生とは変わらずに話ができる、そんな信頼。

思えばいろんな匂いにつつまれてきました。
病院によって匂いが異なります。
お年寄りが多くいらしたり、患者さんの生活の匂いがしたりする外来に安堵するのはおかしいのかもしれないと思ったりもします。