2011-01-01から1年間の記事一覧

せいどとじっかんと私 その2

久野収「三木哲学におけるレトリックの論理について(続)」 (「思想」No.520、1967年11月号 )より抜粋…わが日本の共同体的伝統は、レトリックのロゴスによってささえられてきたのではなく、パトスの直接的共同によってささえられてきたのは、周知の事実で…

せいどとじっかんと私

久野収・鶴見俊輔『現代日本の思想』岩波新書(1956) 「日本の観念論 ―白樺派―」より抜粋…高村光太郎もまた白樺的な人物の一人である有馬頼寧に指揮された初期の翼賛運動のよびかけにたいして、その善意の純粋性を信じて、身を投じたのである。そして、この…

なまのてつがく

…前世紀の末以来哲学においては、<真の>経験を獲得しようとする一連の試みがなされた。この<真の>経験は、文明化した大衆(マッセ)の画一的で不自然な生活に沈殿する経験と対立するものとされる。これらの勢いこんだ試みは普通一貫して「生の哲学」とい…

あめはふるふる

Rappelle-toiと呼びかけられ雨を浴びながら詩人の言葉を聴きました。 水底に眠ることばへ沈みこむように潜りすすみ、泳ぎきったのではなく流されてしまった、そんな講義。 記憶しているのだけれども忘却していることばを想いました。ベンヤミンに「歴史哲学…

夜が織ったものを、昼がほどく

周知のごとく、プルーストは彼の作品において、ひとつの生がそれがあったままに叙述したのではなく、この生を体験した者がそれを追想する(Erinnern)とおりに叙述した。だがこの言い方もまだ不正確だし、あまりに粗雑すぎる。というのも、追想する作者のた…

「パースペクティヴ」から遠く離れて

お能の面には、こちらの見たいものが見える。 そう言われたことがありました。私が見たいものを、見させてくれる。 私の見ているものが、見える。視点も視野も視座もないところで。

蜜柑をふたつ

蜜柑をふたつ食べました。 酸っぱくも甘くもなく風味はありましたが薄かったです。 しっかりします。

おひさしぶりです

すっかり更新から遠ざかっておりました。 書くことの距離がつかめません。 いくら眠っても眠りたりない9月は過ぎて、とっぷり10月。 金木犀も甘だるく匂います。調子はよくないです。夏は終えたのだけれども。 まあ、仕方がないのですが、顔は痺れ、目は…

寒天人間

眠って過ごしております。 彼岸もすぎて冷えております。 独特の物質感です。 表面ひりひり、手足がごろり。寒天みたいです。「痺れている」と言うのでしょうかねえ。 あんみつに入っている角切寒天であって、シャーレの培地ではないつもりですが、メディウ…

イントロダクション。読みかじりメモ

イントロダクション。intro-duction. 翻訳書の「解説」「序文」、読みかじった言葉のメモ。アルフォンソ・リンギス 『汝の敵を愛せ』(発行元:洛北出版/発売元:松籟社、2004年7月)より、 田崎英明氏の解説。出版社のサイトに転載されています。 田崎さん…

ほも・ろくえんす その1

六車進子『自然と歴史 −文化社会学論集−』1989、関学生協出版会 「ホモ・ロクエンス ―比較文化的考察― 」より…人間の創造的行為のひとつは、艱難辛苦の果て、渾身をかたむけて、ようやくひとつのことばを発すること、そのことの中にも、いや、そのことの中に…

タロウと忘却と

花田清輝「咽元過ぎれば熱さを忘れる」(『いろはにほへと』)より 『花田清輝全集 第十巻』講談社、1978←初出:『毎日グラフ』1961年11月5日号…太宰治は『お伽草子』のなかで「年月は、人間の救いである。忘却は、人間の救いである」といって、太郎は、玉手…

旅人のように

…I regained my sight at age of fifteen. I never took the trouble to learn the causes of the sudden loss and return of sight. Martha said jokingly that it was a miracle the Hoffers managed to stay alive. None of them lived past fifty. "Neve…

てつがくをゼーエンするのだ

蔵内数太「耳に残っている三木氏」より (三木清全集 第18巻・月報、1968年3月、岩波書店) …三木氏は西田博士の門下であるが、その博士の講演を私は三木氏のお蔭で一回だけ聞くことができた。同時にこれは博士の風姿に接した唯一の機会でもあった。それは…

いま生きている

「いま、生きているのよ」 そのとき、言われた言葉だった。昨日できていたことが、今日できない。 今日できていることが、明日できなくなっているかもしれない。 でも、いま生きている。いま、生きている。 この言葉の向こう、この手のひらの先に、患者と医…

みるみる

見ようとしていると、見ようとしているものしか見えない。 見ようとすると、見たいものしか見えないのじゃないのか。 発見的であろうとすると、何も発見できないのじゃないか。物としての人間、潜勢力の話もあるけれど。学部時代、先輩に「ものの見方に興味…

体験と経験と

マーティン・ジェイ『暴力の屈折』 谷徹・谷優訳 岩波書店、2004年 第一章 慰めはいらない ―ベンヤミンと弔いの拒否 より…かくして、彼の空想は、ヘーゲル的な想起=内在化(Erinnerung)とは異なった記憶の概念に依拠している。ヘーゲル的な想起においては、…

タロウの黒太陽

バンパクの廃墟に造られたキャンパスの端、附属病院の高層からは、 「太陽の塔」のちょうど裏側、黒太陽がよく見えます。塚原史さんの壮大でスリリングな解釈を思います。 (スリリングって80年代ふうの響きだわん)塚原史『人間はなぜ非人間的になれるのか…

わたしはできる

わたしはできる、わたしはできる。 デカルトの「我思う」je penseに対して、メルロポンティは「我能う」je peux-を唱えたそうな。わたしはできる、わたしはできる。私はお米を研ぐことができる。 じゃぐじゃぐと音を立てることができる。 びりびりと痺れて感…

ひぽくらてすのひぐらし

通院日でした。待ち時間、自販機のじりじり音の近くに座ってみました。 夜中にひとり暮らしのアパートで鳴りひびく冷蔵庫をうたった詩と詩人を想いつつ。先生の「害にならない、というのがあって」とのお言葉に、ヒポクラテスさんを想起。教科書発想ですがな…

ブログはじめます

友人から助言をいただき、早速ブログを始めてみました。 師匠にこっそりならって「はてな」で開設してみました。むかしのむかし、まだブログ誕生以前の時代に、ウェブ日記をつけておりました。 記憶を記録するのではなく、記録は記憶となる。 記録はperforma…