わたしはできる

わたしはできる、わたしはできる。
デカルトの「我思う」je penseに対して、メルロポンティは「我能う」je peux-を唱えたそうな。

わたしはできる、わたしはできる。

私はお米を研ぐことができる。
じゃぐじゃぐと音を立てることができる。
びりびりと痺れて感覚も遠い、引き攣れ痛むこの手で、私はできる、私はできる。
そう思いながらお米を研いで、共食したことがありました。
(共食は食べることの罪の意識を共有すること、共同体の儀式でごんす)
わたしはできる、わたしはできる。

私は食器を使って食事をすることができる。書くことができる。
ドアを開けることができる。エレベーターのボタンを押すことができる。
立つことができる、地面を踏みしめることができる。

できないことができるようになり、そのとき広がった世界を噛みしめた。
いろんな事ができなくなり、今できること、その瞬間の世界を噛みしめた。
この身体が作る世界。この私が住まう世界。

私はこの手を伸ばすことができる、あなたの手に届かせることができる。
あなたに触れることができる、あなたの手の感触をわかることができる。
運動すること、感覚すること、存在することができる。
わたしはできる、それがわたしの世界。

「わたしはできる」は、自然科学、医学や認知科学などとも馴染みよく、ますます研究されていくのでしょう。
けれども。私はできる、私はできる。
この「自己権能感」の、倫理としての問題。

わたしはできない、わたしはできない。
わたしは、かつて届いたあなたの手に触れることができない。
わたしは、あなたを知覚することができない。
わたしの世界では、あなたと出会うことができない。

今できることで今の世界がある。かつての世界には届かない。
今のこの身体では、知ることができない世界があるらしい。
それがどんなものか、知ることができない。

わたしはできない。それを語ることもできるはずです。
そして語りながら、「できる/できない」という言葉が支配しない場所を、忘れずにいることもできるはずです。
わたしが場所を占めること、わたしが身体を持つこと、そこが倫理の始まりだということも。