ひぽくらてすのひぐらし

通院日でした。待ち時間、自販機のじりじり音の近くに座ってみました。
夜中にひとり暮らしのアパートで鳴りひびく冷蔵庫をうたった詩と詩人を想いつつ。

先生の「害にならない、というのがあって」とのお言葉に、ヒポクラテスさんを想起。教科書発想ですがな。

「害にならない」とは、「害」とは何か。
ヒポクラテスさんに於いては、人にとっての「害」というのは「自然とは何か」を押さえないことには決まらないよに思いましたが。ヒポさんの自然はピュシスですけども。(その後の自然と技術、アリストテレスの技術論、現代に至る医療制度・社会制度を考えると、現代医療はヒポさんじゃ語れないぞ…という話になるようですが)

「害になる」といってしまえば、呼吸だって酸化ストレス、酸素はフリーラジカルなのでして。でもその酸化ストレスが寿命を延ばしているとも、学説はあるようですけども。

生きると、どこかしら弱っていく。
いずれ死ぬように生まれてきている。
いずれ死ぬ、それが自然。それが生命。

何が生命にとって自然であるか、それとも、何が「私の生老病死」にとって自然であるか。これを軸として、何を害と言うのか。
生命にとっての自然と、社会存在としての人間にとっての自然と、これまた異なるのでしょうか。思考を異ならす、ビオス/ゾーエーの区分。

なにが薬となり、なにが毒となるのか。
それは、だれがいつ決めることで、だれがだれに対して、どこで使う言葉なんでしょか。その場は、どのように認識されうるのでしょうか。
場という平面を、空間でとらえないと見えませぬ。
或いは、それを制度の位相とも。