跳ぶ

丸山圭三郎『ホモ・モルタリス―生命と過剰・第二部』河出書房新社、1992年より抜粋(127頁-128頁)
(初出掲載:「文藝」1991年夏季〜冬季号)

 1990年の暮に河合隼雄氏に誘われて比叡山にのぼり延暦寺堀沢祖門師とお会いした。
「禅の悟りは万巻の書を読破しても得られない」という話を聴きながら、文学史的知識をほこる大学の文学講義担当教授、哲学史的知識を鼻にかけながら、自らは一切の思想も持たない哲学学者を思い出した。覚者(かくしゃ)(ブッダ)と学者(がくしゃ)とでは、濁点の有無以上の違いがあることは確かである。日本語では、何故か金(きん)と銀(ぎん)、白百合の咲く谷(たに)と人の生き血を吸う 壁蝨(だに)、「カニは食うてもガニは食うな」等々のように、濁点がつくと質がおちる。勘(かん)が働くのは良いが、癌(がん)に働かれては身がもたない。ひょっとしたら神智(しんち)と人智(じんち)についても同じことが言えるのかも知れない。人は博学な知識に驚き敬意を抱く。クイズ番組に出れば学者が覚者にまさるだろう。テレビに深層の耳目は不要である。
 しかし、私は〈覚者〉になれるとも思わないし、なりたいとも思わない。あらゆる欲望への執着を捨てて、輪廻転生の苦からも解脱する死のない状態の恐ろしさ。永遠に死ねないことは、死ぬこと以上に耐え難い。悟りとは、目覚めであるとしたら、私のような凡人は、どんなに睡眠と夢を渇望してのたうちまわることであろうか。
 私はかつて、ロゴスはパトスであり、パトスはロゴスであると書いた。知性は感性の中にしかなく、感性は知性の中にしか見出せないとも述べた(拙著『言葉と無意識』、講談社、1987年)。これはシュレーバーの根源言語や夢の象徴的な多義語の遊びではない。この等式のもつ意味は、相対的に存在する意識の表層と深層の間の絶えざる円環運動をさしているのだ。本節の後半でも明らかになるように、この運動は永続的な〈解体=構築〉であり、一つの制度批判が「表層の制度移行、権力交代」に終わることがないように、常にまた深層へと降りていく、しんどい、しかし愉しい営みである。……

(原文よりルビ表記および漢数字表記を変更、傍点を省略(「等式」に傍点あり))

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理論ができあがっているためか数冊読めば何を読んでも同じように読めてしまうようなのと、どこかしら私の嗜好が異なるのもあって(現在では深層とか表層とかいう説明概念そのものがどうかと思ったりもしますし)、すっかり丸山本は読みませんが、丸山せんせいすてき。

「のたうちまわる」という表現に丸山せんせい=ウロボロスがびったんびったん跳ねているのを想像してしまったのは、丸山言語哲学に轢かれてしまった当時は高校時代の私ですが(丸山読者のみなさまごめんなさい)、年をながく経てもなお初読のイメージそのままに丸山本の「のたうち」には、しっぽをくわえて輪になったヘビさんがびったんびったん跳ねてわずかばかり横移動しているのを想像してしまいます(←何かがおかしいにちがいない)。
シュールというよりコミカルですが、砂漠には横走りするヘビもいるのだし、多様な環境でも移動運動が可能なヘビ型ロボットというのもあるのだし、輪になったほうが駆動性がいいかもしれないし、這わずに跳ぶというのも…などとあれこれ思ってしまいます(←話の方向がちがっている)。

この御本のプロローグで、幼少時代に読んだと書かれている「貧しい靴屋と悪魔の話」がどうにも忘れられません。
お話そのものは「おれの名前をあててみな、見事あてたら魂はいらない」なんて一方的な契約が既に成立してしまっているよくありがちなお話なのですが。
「もしや……もしやあなたはジャン?」…「それではひょっとして、ピエールさん?」…「でいけどん!お前の名はでいけどんだ!」…。
仏文学のひとには抵抗なく響くのでしょうか。私はこんな真面目な滴るような文体のなか笑っていいものかと顔が痛いのですが。

「やあ、ぼくの名前はでいけどん。悪魔なんだ。君の魂をおくれよ」なんて言って来られたら、
ワイルドの童話の、みどりいろの毒蛇の皮のついた柄のナイフでみずからの足もとから魂を切り取り捨てる漁師さんに引きあわせてさしあげたい。地理的にはそう遠くないはずです。