樹を見つめず、樹を抱いて

曇りぞらも凍てつく冬の日に研究会のおしまいへお邪魔してご馳走になった林檎はしゃっきりあまく私を透らせてゆきました。
ご馳走してくださった方の静かな的確な注意に胃袋から支えられ寒空のもと幸福でした。
焼林檎はベルリンの幼年時代の香りなどとは思いませんが、いまも残るあまい香味はあらたな冬の記憶になりゆきます。

12月11日の花はヤドリギ花言葉は困難に打ち勝つ…などと数日前の明け方のゆめうつつに聴いていた公共放送、男性アナウンサーの声が数日を経て低くよく響いています。
漢字では宿木と書く、木に寄生する、繁殖力が強く、樹上から幹に根をはり養分を摂り…などと怖ろしいようにも聞こえていたのですが、木は枯れているのにヤドリギは繁っている。北欧のじめじめ湿った森のひとたちは、そんなヤドリギさんに生命力を感じられたのでしょうか。

ヤドリギといえばフレイザー金枝篇、ダイジェスト版を読みかじったなかにあれこれお話がありました(ちなみにメアリ・ダグラス監修の図説版では、監修編集者によって引かれたガイドラインが初学者として読みごたえがあったように思います。人類学のお勉強はとても政治的で倫理的)。

アニミズムから多神論への移行。一本の樹木が木霊の体とは見られなくなり、木霊が個々の樹木から切り離されて見られるようになったとき、人間の姿をとるようになった木霊は自由に樹木から離れるようになり、樹木の魂であることをやめて森林の神となる。樹木はただの仮の宿、いつでも棄て去ることができる。そんなお話だったような。私の読み込んだ読みまちがいのお話かもしれませんが。

むかし、環境哲学者たるヴァンダナ・シヴァさんはお若いころに村の女性たちと木に抱きついて木を伐らせない運動をしていたのだ…と聞かされたときに、ヒマラヤ麓の森林でとりどりの衣服をまとったふくよかなインドのおばさまたちが木々にとりどりになっている光景を想像して圧倒されたことがありました(←いやいや実際はtreehuggerはそんなんじゃないからとか冷静な突っ込みが確実に入ります)。

その土地に合わない木を植林して土地が干あがる、単一栽培と農薬で土壌が死ぬ。
師匠がちぎりわけてくださるパンをたくさんご馳走になりながら聞いた、心理学者と思っていたら実は農業経済に通じたアクティヴィストでいらした先生のwhite dead soilの話を想いだします(食べてばかりですな)。

ヒマラヤのふもとであるのに植民地経済の名残でユーカリ林が広がる、からからに乾いた土地があるそうです。
樹木が伐られ土地が枯れてしまったとき、木霊さんはどこに居ればいいのでしょうか。むかしの原生林にいらした木霊さんたちは、みなさんヒマラヤ移住ではあるまいか…いいや外来種であれ製紙材用への組換えであれ工業化されたユーカリ林にも木霊さんは等しくいるはずだ…などと御伽話な空想をしてしまいます。身体をもたない木霊さんご自身の手で土地を耕されるわけにはいくまいし。うぬー。

アーリア神話の黄金色に枯れたヤドリギ golden bough ではなく、ヒマラヤの樹木を抱く女性の腕 bough に樹木の生命をかんじます。
生命力というならば、生きて食べて働いて眠る、息をして汗をかき脈を打つ身体、木霊の姿ではなく樹木そのもの、生態系のなかのヤドリギそのもの、木を抱いている人こそ美しい。
シヴァさんの名前は花言葉にはなりませんがな。