台所から海底へ

ハンナ・アーレントカール・ヤスパースアーレント=ヤスパース往復書簡1926-1969 1』L.ケーラー/H.ザーナー編 大島かおり訳、みすず書房、2004年より

52 K.ヤスパースよりH.アーレントへ    ハイデルベルク 1947年1月8日

……私どもはつつがなく過ごしています。でもそれはここではほとんど不自然なくらいです。厳寒がもう訪れているのに、石炭の備蓄は皆無。河は凍り、機関車は故障し、修理はますますむずかしくなり、新しく造るのもままならず。諸産業は石炭不足のせいで突然操業停止。三日まえからランベルト・シュナイダーのところでも仕事ができなくなっています。第12号は発行部数の半分まで印刷したところで止まってしまった。寒さは長く居据わりそうなようすです。それでも私どものところには数年来の石炭の最後の残りがまだある―ヒットラー時代からすでに節約して、毛布にくるまって寒さを凌いできたからです。おかげでいまの室内温度は摂氏11度―屋外はマイナス6度。なにもない人たちは最悪の目にあっている、しかもそういう人たちは多いのです。
 われわれの問いかけや努力は、ほとんどの人たちの困窮に呑みこまれて消えてしまう。私のこれまでのような語り方は―語ること自体ではなく、現実の状態をまえにしては―無意味になっている。生活のいちばん基本的な必要が問題となっているときには、そのことにしか関心がいかなくなるのです。敗者がもっとひどい目にあわされることだってありえただろうに、などと言っても、だれも聞く耳をもたない。違いは外観だけのことだと言い返される―このままでゆくと住民の半数は死に、残る者もあとは農作物でかつかつ食いつなぐしかない、と。…(中略)…要するに、ことはまだけっして行き着くところまで行ってはなく、先行きの心配ばかりがつのり、そしていま現実の困窮が、この寒さにしても何週間かで終わることを忘れさせているのです。
 これは私が心に想い描いたような手紙とはちがいます。うまくいきませんでした。望むらくは、また、つぎの機会に。…

                                                                                                                                                                                                      • -

アレントヤスパースの書簡集は深みがあっていいわ、などとやわらかに言っていたひとがいて、そのやわらかな響きがなければ手に取ることはなかった本なのですが。すこし読んで、それまでの私のかたくなな「ヤスペルス」先生への苦手意識をうしないました。

ベンヤミンを「真珠採り」に喩えていたのはアレントさんですが、
海底深く眠る真珠を愛するアレントの本能を見てとっていらしたのはヤスパース先生なのでしょうか。
アレントの荒削りな学位論文に付けられたヤスパース先生の所見など、こころを打たれます。

おふたりの(そしてヤスパース夫人であるゲルトルートさんの)容赦のない真摯さに胸をうたれたりもしますが、普段の生活の話がいい。
アレントさんが62歳ごろ、交通事故に遭われたときに、ヤスパース先生はお手紙で医学所見を検討されて、あとは美容上の問題、私も心配している、でも髪が伸びて傷あとを隠してくれる、眼の上の傷が残るけれど、小さくて細いものならかえって美しさを引き立てる。だいじょうぶ、君の美しさはどんな条件下でも輝きでる、君の美しさは動作とまなざし、表情にあるのだから。悪魔はすこし引っ掻いただけで君の芯には届かない。君には何ものにも破壊できないものがあると信じられる気がする、なんて書き送られていたり。
細かく書いてしまいましたが、細やかなのです。テクストを批評し吟味するように。
直観で跳んでしまうアレントさんに、ウェーバーを読みなさい方法論を勉強しなさいと指導されているのと地続きの態度。
年をとるにつれ老いやリウマチの話なども出てくるようになりますが、あたたかさに打たれます。打たれてばかり。

アレントさんが戦後、ハイデルベルクヤスパース先生にひと月に3個は送り続けるようになった小包の中身が気になりました。
ヤスパース先生がスイスへ移るまで、はじめはアメリカ人の友人に託して、輸送ルートをあれこれ駆使、先生宛てにじかに送るようになっても差出人名に気を付けたり、そのころには対欧支援の「CAREパッケージ」を申し込んだりもされています。ベーコンや砂糖、粉ミルク、乾燥卵なども入っていたのでしょうか。
台所の様子がわからないと、ヤスパース先生が戦中戦後と『精神病理学』の改訂版を書き続けていた状況、大学で再開した講義が「哲学入門」であったこと、大学生の雰囲気、楽な暮らしをしにドイツを捨てて行くのかと非難をうけた状況の厳しさなども想像しがたいように思います。

わたしの大事な誰かが生き延びて、そして生存しているということが、みずからの生存の条件となっていることがあるように思われます。

「いささかの連帯」とは何でしょう。それらを守る「習慣」とは何でしょう。
生存の基本的なところ、台所から政治をする、食料援助からコントロールをかける、援助の名のもとに食文化から産業構造まで飼ってしまう、といった問題は開発援助の歴史がものがたるところ。
そうではないところの「いささかの連帯」。それはどのように可能なのでしょう。
誰との連帯、連帯から外れる誰か、隣人とは誰なのか。
台所ではじめられている倫理があるように思います。