むうみん

すてきなニョロニョロを連れていたひとに「ムーミンは妖精です」と言われました。ふーぬ。
ムーミントロールなのでつまりは妖怪、日本でいうなればカッパやゲゲゲのキタロウさんのお仲間かと思われますが、どうなのでしょう。

まあ、そんなことはどうだってよいのです。カテゴリイはどうでもよい。ムーミン族はじつはむかしは人間だったのだけれど進化したんだ、そのうちもっと進化してヒレやエラができて海に帰るんだ、というお話だってありうるのでしょう。あくまで絵本である彼らの世界を解釈して彼らの世界を構築しているのは、彼らの世界のまるきり外の鑑賞者たる私ですからな。そうして私がどのような意味や秩序を見いだすかは、同時に私自身を私の属する世界を読み解くことではありますがな。
どの世界だって世界であるなら、条理であれ不条理であれ秩序があるのでさ。

ムーミン社会でみうけられる植物学や読書の習慣、新聞の流通などからして、そのうちムーミン谷にも進化論と人種理論とがむすんでひらいて帝国主義優生学な時代がくるのかもしれない、けれども進化論が淘汰ではなくさらなる多様性を目指す方向はおおいにありうるのではなかろうか。でも彼らの魔術的世界なら異端審問型ではなく魔女狩り型の文化圏、火祭りがあるので火あぶりがありそうにも思える…なんて連想をしてしまいましたさ(ムーミン好きの皆さまごめんなさい)。
地母神の負の側面が魔女崇拝となる…といった研究など、大真面目に基礎法学や経済思想や社会学の根っこの話なのだと知ったのは(バハオーフェンとかウェーバーとかお堅いテキストの世界ですがな)ずいぶん年を取ってからでしたが、私はずいぶんお勉強のおもしろさを知らないようにおもいます。それでも学部のパンキョーでばらばらにかじった言葉でさえも、時を経て布置をとる瞬間があったりしています。

○○学という分類も、その分類を基礎とする「学際」という分類にも、大学の歴史をすこし思うだけですこし考えさせられます。
大学の広報などで「社会の要請にしたがって」「社会から求められている」などと書かれた言葉を読んでは変なものを食べた気分になることがありますが。社会ってなに。誰のこと。行為遂行的なレトリックではあるのであっても。

新しい学問分野や新たな専門職養成といったなにかしらの制度をうちたてるのであるならば、「社会の求めに基いてデザインされる私」ではなく、「私が社会をデザインしていく」という気概を書いてもよいのではないか。社会のなにかしらの問題をどのような問題として設定するのか、どのように社会をデザインするかは誰にも指定されていないのなら。問題設定が適切であればすでに問題の半分は解決しているのだとしたら。
けれども「私が」と書ききってしまえないのはどうしてか。教育や研究ではなく、公共事業でさえ「社会に求められて」とうたってその場しのぎの政策でばらまきや既得権益の確保がなされてきたのではないか。

フォロワーシップ」という片仮名でありつづける日本語を考えていくこと。
リーダーがフォロワーを支配するのではなく、またフォロワーがリーダーを対等に支えるのではなく、群れとしてフォロワーがリーダーを設定し、フォロワーがリーダーを誘導し支配させながら支配する/支配しながら支配される、そんな空気のある社会構造があるのでしょうか。「種」としての主体性やら生命などと言いだされると私はしりごみしてしまうのですが、大事なところ。群れの秩序の暴力構造はむかしからの考えどころ。文化人類学社会学ができたのは19世紀とされていますがな。
霊長類の特徴はsocial classがあることだと教わったことがありますが、霊長類でもムーミンでも秩序問題はかわらぬように思われます。
いずれムーミン君がおじさんになってハイデガーのように大学総長となり「血と地と運命」をうたうことだってあるかもしれません。