春をうたって

冷え込みが続きます。空は霞んで舌にはぴりりと金属の味。ぐんなり冷蔵されっぱなしです。
冬の名残りのオリオンを見あげながら、花の香りが運ばれているのを嗅ぎわけたのも数週間前のこと。
花粉と黄砂とスモッグの春におそわれてはいるのです。

夢をみました。
アンソロジーを編んでいて、いくつめかに友人の詩を組んでいました。
大型の書物の形状をとった電子本で、映像と音声が再生される。友人の歌声。
ちいさなシュテットルのちいさな女の子がかつて遊んでいた場所を、いまはもう誰も訪れることのない場所を、失われているからこそ風化することのない場所を、詩にした歌。マイナー言語でつづられた詩。友人による翻訳文が付いています。
舞台とされていた土地の名は、雪が積もることのない乾いた気候の場所のはずなのですが、
映されていたのは、雪が融けきることのない暗い村のちいさな家。そのあたりのちぐはぐさが夢。
氷の世界であるのは、このところムーミンにつかれている私のおとぎ話版ムーミン世界からの連想のようです。
マイナー言語の詩というのは、さいきん目を落としている詩集からの連想なのでしょう。
そして、二人称文学というのではカツェネルソン『滅ぼされたユダヤの民の歌』の西成彦さんの解説がいい、そんな話をしていた友人に歌をうたわれてしまったのでしょう。

聴いたことのない歌を聴く、書かれたことのない詩を読む、そんな夢をみながら幸福をおぼえていたのですが。
美しい春がおとずれるヴィッテルの収容所で、詩稿を3本の壜に詰めて、古木の根元に埋めて。詩の写しを薄紙にとって、トランクの把手に縫いこんで。
その春、カツェネルソンは生き残っていた息子とともにアウシュヴィッツへ移送される。
そして生き残ったひとたちの手によってすくいだされ出版され翻訳され響きつづける詩。
呼びかけられながら拒まれつづけ、拒まれながら呼びかけられる二人称の詩。
幸福とはいえないのかもしれません。

さいきん教えていただいた「二人称の現象学」という言葉と並置しておきたい言葉です。