せいどとじっかんと私 その2

久野収「三木哲学におけるレトリックの論理について(続)」
(「思想」No.520、1967年11月号 )より抜粋

…わが日本の共同体的伝統は、レトリックのロゴスによってささえられてきたのではなく、パトスの直接的共同によってささえられてきたのは、周知の事実であります。そして、明治開国以後には、近代科学の輸入を通じる認識のロゴスの上から下への普及過程にとどまってしまい、その上に、戦後は大衆社会の一方的マスコミの圧倒的支配が実現する結果になって、レトリックのロゴスは、とうとういちども社会的ロゴスの中で、支配的位置をしめた経験をもっていません。日本のデモクラシーの弱さは、そこにひそんでいるのだとみなしても、それほど見当はずれではないと思います。
そういう日本型共同体においては、説得力のかわりの役目をするのは、一方的語り口です。『平家物語』の琵琶法師たちの語りものからはじまって、われわれ自身は、非常に多くの語りもののジャンルやテクニックをもっております。浪花節、講談、落語、すべてそうであります。語る人のパトスが聞く人のパトスに乗りうつって、そこに集団的パトスの共有という現象が生じ、そうしたパトスがやがて実践への案内役をつとめる。社会的理性は、認識のロゴスとして、専門家の中で実現され、そこから下に普及するという過程をとっています。そういう過程をただ再生産しているだけでは、戦後のわれわれの難関を打開することができなくなっているという点が、私をして、三木さんのレトリックの論理をみなさんに考えなおしていただきたいと思わせた理由であります。
 日本的共同体は、インテリゲンチャが異議を申したてるのが非常にむずかしかった世界です。日本人なら同じ感じ方をし、同じ考え方をするのが当然だ、同じ喜怒哀楽を感じるのが当然だ、意見がちがってくるのは、どちらかが、日本型共同体そのものに異議を申したてているのだから、そういう連中はおかしいのだ、という思想伝統が、それこそ、パブリックに問題にされたことは一回もなかった。社会的ロゴスに関するかぎり、日本人はみごとな全体主義を実行してきました。気持の一致を大前提とする世界の中で、日本人は疑いをもたずに暮らしつづけてきたといってよいでしょう。なぜそうなったかについては、柳田国男氏の仮説がありますが、ここでは指摘するだけにとどめておきましょう。…