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中井久夫「概説」『岩波講座 精神の科学8 治療と文化』岩波書店、1983年、70頁より抜粋

「八 治療文化論」

…病者と非病者は、対をなすものではない。病者が「有徴者」(印がついたものthe marked)であるのに対して、非病者は無徴者であるから、「非病者」という否定的表現しかできないはずであって、「健常者」ということばはおかしい。……
…(中略)…

 病いの有徴性は、病いが「宣告される病い」から「診断され治療される病い」に移行するにつれて消失に向う。歯痛は耐え難いものの一つであり、歯科治療は大きな救済をもとらすが、今日のムシ歯は一般に、何の有徴性をも個体に与えない。逆に、有徴性を付与される「宣告される病い」は精神病に限らない。かつてのハンセン氏病、あるいは結核はいちじるしい有徴性を帯びていた。スーザン・ソンタグが『隠喩としての病い』で描き出そうとしたものは、新しい「宣告される病い」としての悪性腫瘍である。すなわち「宣告される病い」が有徴性を帯びるには、もう一つの条件すなわち「すぐは死滅しない」を必要とする。「多少とも速やかに死に至る病い」に対しては人間は、心理的・制度的に美しい儀式と手続きとを準備することができる。しかし「容易には死に至らない病い」の処遇はおのずと異なる。ソンタグが癌をとりあげた時点は癌が「おおむね死には速やかに至らない位置」を獲得しつつある時点であり、同じ頃の米国医学雑誌には「悪性腫瘍からの回復者」に対する職業差別がとりあげられていた。激務につけたのちに再発した時の訴訟を嫌っての忌避である。転職回数の少ないわが国では、閑職につけるなどの処遇にとどまっているようであるが、今後、「新しい障害者」として問題になりうる可能性がある。……

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およそ30年前に書かれたもの。

日常生活は送れるけれども社会生活はむずかしい、なんて言い方があったことを、私はながく知らずにいました。
「日常生活」と医者が言うのはあれは専門用語なんですよ、などと教えられてようやく知ったのでした。
「社会的な生」「社会的な命」とか言われますものな。
「ぼくらはね、患者さんの社会的な命を支えるのが仕事だから」とか聞いたこともありますものな。

死なない死なせない死ねない死にたくない、という言葉の群れと
生きられる生かせられない生きられない生きたい、という言葉の群れのけして対立軸にはない群れの
どの言葉が選ばれ語られるかは その瞬間が於いてある場所に拠る、というよりは
どの言葉が語られ・語らせられたか、どのような表現をとられ・とらせたかによって 
何処に於いてあるのか場所がうまれる、そう言えるのではないでしょうか。

「聴く」と「聴くを立場にする」は違うのだと、存在どどんと言われましたさ。
「聴く」を「立場」にしてしまうのは、「聴く」ではない。

いつだったか、社会人学生の方々が複数いらしたあるゼミで、「私ケアするひと/あなたケアされるひと、っていうのはどうかと」「対話なのだから自己変容が」「じっさいに触っているでしょう」などとつぎつぎコメントが出るのを聞いて、こんなひとたちと出遭えるのであれば何処へいっても生きられる、と思ったことを覚えています。

「病前病後に誰と一緒にいるか」なのだと、研究会でコメントされていたNさんのことばを想います。

それにしても私、さいきん言葉がくどいですな。うぬー。