あったのです

中上健次紀州弁」『鳥のように獣のように』講談社文芸文庫、1994年(←底本:講談社、1981年)より抜粋

紀州弁、新宮弁の特徴に、いまひとつ、「いる」という助詞がないことをあげる。
「なんな、そこに、あったんか」それを、標準語にすると、
「なんだ、そこに、いたのか」となる。よく、東京の人たちに、人間を、物が在るように言うと、わらわれた。
 さて、紀州というその風土に生れた小説家としてのぼくは、敬語、丁寧語のない言葉を血肉に受け、人がいるのではなく、在る、在ってしまう世界を書こうとしているのだ、と言えば、自己解説しすぎるだろうか?
 一人の青年が、土方として、ここに在る。決して、それは、「いる」のではない。まず、肉体として、在る。汗を流す。ズボンの裏をひっくり返すと、体から流れ出た汗が、乾いてしまい、白い塩の結晶になってくっついている。また、働く。
 上京して、長いこと、フーテン生活をして、物を書きながら、職を転々としてきた。職のことごとくが、肉体労働だった。そのどれにも、肉体労働ほど、人間の頭を試すものはないと思いしらされた。頭、それを知識と知性、心理と意識と言おうか?物といつも相対するわけである。土を一日ほじくり返す土方が、もし、いつも心理や意識の袋小路にはいり込んでしまうしかない人間だとしたら、何日それに耐えられるだろうか、と思うのである。そして、言葉を書かないアランやホッファとも言うべき人たちに、ぼくは、随分出会った。彼らは、人間は、「いる」のではなく、「在る」のだということを知っている。
「いる」より、「在る」が、非文学的なのである。それがよい。だから「在る」ことのこころよさは、言い換えてみれば、非文学的なもののこころよさかもしれない。たとえば夜勤明けの朝、採光用の天窓からの明りで、色が黄金色にみえるボルト、その物の輝きを、どう伝えたらよいか?物質的恍惚としか言えぬ経験なのである。飛行機に貨物を積み終え、ドアをロックし、さあ、走れ、翔べと馬にでも言うように、ジュラルミンのドアを、たんとたたいた時の、ジュラルミンの手ざわりである。飛行機が空を翔ける馬のようだと、レトリックを言うのではない。物とぼく自身の、交感のようなものである。「いる」ことではなく、「在る」ことが、こころよい。標準語を使う標準人のように「いる」ことを言いはじめると、この世界に、生きることに、臆病風を吹かすことになる。……

(原文では「標準人」に傍点あり)

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いつから人間は「いる」ようになったのでしょうか。