ちりちり

ちりちり指に手のひらに感覚が出てきた。血流がもどってきたのかな。
ぴりぴり痛みがひろがっていく。指をひろげてみる。手のひらをのばしてみる。
じーっと痺れが強くなる。じんわり手をにぎってみる。ゆるめてみる。びりびりずきずき疼きだす。
喉がひらいて息がとおる。呼吸が起こる。呼吸は全身のマッサージ。背骨をなぞるように呼吸する。
じんじんずきずき、痛みと痺れがあたたかい。
わたしの手、わたしの皮膚、わたしの体。
治療を受けて診療台にまどろみながら、わたしの手はわたしの手になる。

この部位がつめたい、かたくなっている、まだそうでもない、こわばりがある、まがりにくい、やせてはいない。
そのときを、見られ、触れられ、確かめられてきた。
わたしの手が触れているのはあなたの手。あなたの手はこのような形。
そのときを、伝えられ、教えられてきた。
いまのわたしのこの手のかたちは、この先生の手につくられてきたかたち。
いろんなひとの手につくられてきたかたち。

もうずいぶん以前になる。
字が書けなくて、と、ぴくぴくひくつく手を見せたら、「あら」と指でぴたり、触ってこられた。
不気味だとか物珍しいとかまったくないんだもの、おどろいた。
私にとってなんだかよくわからないぴくぴくに、しなやかな指でぴたり、挨拶されてしまった。
そのときの、ぴたり。

こないだの診察。
どうもここの筋肉が、ウメボシの種にでもなりたいみたいで、とお話ししていたら、
もがもがうがうが訴える私をほんわりゆったり見ていらした先生が、
ぱっと手を伸ばしてこられて、ぐっと触診。筋肉がある。
だいじょうぶ。やせていない。
そのときの、感触の確かさ。

もうすでに私の日常感覚になってしまっていること。
じんじんずきずき疼いていると、あたたかくてしあわせ。
痛くてもそのとき動けなくても、あたたかくてしあわせ。
「熱くなるのはいい、血流があるということだから」と教えてくださった、外科の先生の言葉のおかげ。
そのときかけていただいた、認知のバイアスのおかげ。

いろんなひとの手に触れてこられて、いろんなひとの言葉があって、いまの私の手がある。
おかげで、あつくなるのも、しびれも、ぴくぴくも怖くないのさ。

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9月になってしまっていました。
もくもく入道雲が美しくなったころから晩夏への移ろいをこころまちにしていたのですが、
あいもかわらず気温は下がらず、雷ごろごろ。なんだか平坦です。

さいきん、痺れの感じがちがっています。
ねっちりつめたくおもたい粘土ではなくて、軽くてすかすか。冷たい物質感すらない。
すかすかの野菜を想いうかべましたが、野菜というよりは、塩の固まりみたいです。野菜は嫌だな。
診察でたずねられ、サトウキビをぎりぎり圧搾しているかんじ、などと素直におはなししているから想像しちまうのでしょうか。
ぐんなり塩漬けは嫌だけれど、さっくり塩柱ならいいや。

まあ、すこしばかり脅えをおぼえてしまうというのは、小康状態で安定ができていた、ずいぶん楽をしてこれている、治療がよくて現状維持がうまくできていた、とも言えるのでしょうし、言えてしまうのでしょうな。
現象学的破壊にめぐまれてしまう日常生活でごんす。

治らなくても困らないならいいのでさ。