あいだがらのあいだ

酒井直樹『日本思想という問題 翻訳と主体』岩波書店、1997年
「3 西洋への回帰/東洋への回帰 ―和辻哲郎人間学天皇制―」より抜粋(118頁-119頁)
(初出:『思想』1990年11月号、岩波書店。Boundary 2,vol.18,no.3,1991)

 ハイデッガーの現存在の分析とは対照的に和辻の倫理学は人間の社会性を重視していると、しばしば言われてきた。私はこうした和辻倫理学の評価には全く賛成できない。和辻の人間学に徹底的に欠如しているのは社会性への配慮なのである。常識の言葉としても社会性は間柄以上のものを指示している。例えば親子・師弟などの既存の間柄のなかだけでうまくやってゆけるひとを私達は社会性のあるひとと呼ばない。社会性はそのような間柄に保証された「信頼」から離れ、「社会に出て」「赤の他人」との間に新しい社会関係を作る能力としても了解されているのではないだろうか。だから、このことを喩えを用いて要約すれば社会性はすでに身に付いた言語を私達は話し聞く能力をもつことよりも、未知の言語を私達は習得する能力をもつという事態によって示唆される何かである(もちろん窮極的には、習得された言語と習得しつつある言語は区別し得ないように思える)。

…(中略)…
「信頼は人間関係の上に立っている」という和辻の主張は、あらゆる社会関係に織り込まれた投機を必要とする非決定性を徹底的に見まいとする主張である。しかし、夫と妻という永続的な間柄においても非決定性の可能性は必ず残る。しかも、この非決定性は単なる「個人的衝動」、全体性に背反すること、つまり「我がまま」としての個別性として起るのではない。基本的にはエマニュエル・レヴィナスの言う「他者の超越」としてあらゆる間柄のなかに非決定性は織り込まれているのだ。だから間柄における非決定性の抑圧は実は他者の他者性の拒絶、そして他者への尊敬の拒絶、つまる所、社会性そのものの拒絶を引き起さざるを得ないのである。私の妻は間柄では妻であることが「分っている」にもかかわらず、彼女は単に「妻である」ことはできない。多くの間柄を加えても同じである。妻は同時に消費者であるから魚屋との間柄では「買い手」であり、子供の学校の教師との間柄では「父兄」、働いている会社の若手社員に対しては「上司」であるといった具合に間柄の数を加えてゆけば、彼女はより多くの実践的行為的連関のなかに入ってゆくだろう。しかし、どんなに多くの述語を加えたところで主語=主体として彼女を規定し尽すことはできない。彼女は主語=主体に対する余剰を必ずもっているから、彼女を主体に合一化させることはできないはずだ。そして、彼女をこうした主語=主体に同一化できないからこそ、彼女と私の間には社会性があり得る。同じことが私の私に対する間柄についても言えるはずであろう。すなわち、私と私の関係は全体と個の二重構造に還元できない余剰をもつ。だから私は決して同一性にはならないのである。私は分別できない統一体ではなく、無数の分裂と過剰を含んだ存在なのである。私はひとつの非分割性(individual)ではないのだ。

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シュタイは死体とサカイナオキが書いてた、などと最近ふえたオトウトに言ったものの(お勉強つながりの集団力学は家族制をとるようです)ハテハテどこに記述がありましたかいなと文献をひっくり返しましたが、見当たらない。私の解釈だったようです。すまないオトウト。読んでいないのだとしたら、私はいつどこでそのように解釈したのでしょうか。うーぬ。

「未知の言語を私達は習得する能力をもつという事態によって示唆される何か」という社会性。
地域によってお茶の出しかたも違う、そこへ行って過ごしてみないとわからない、と聞きました。
挨拶のしかた、身体の置きかた、気づかいの示しかたも言語。
病院によって患者さん同士のご挨拶のお作法も異なるように思います。
土地柄、地域性があるのかもしれませんな。

ケアをするとき・ケアをうけるとき、というのは、未知の言語を習得するときなのかもしれません。
あたらしい出会いでもあれば、それまでの間柄では見ることのなかったそのひとを見る、じぶんを見る、そんな機会なのかもしれません。
未知の言語ではなくて、既に知っているのだけれど使ってこなかった言語、いまもそうと知らずに使っている言語だってたくさんあるのかもしれませんけどな。