ウイロウ翻訳

見えないとわかるのは、見えていたものがあったから。
見られているとわかるのは、見られていなかったことがあるから。
伝わらないと感じるのは、かつてだれかと伝わりあっていたから。
伝わっていると思うのは、いつかどこかで伝わりあえずにいたから。
認識というのはそんなものではないのでしょうか。

だれそれの翻訳はウイロウの美味しくないのをひたすらモガモガ食べさせられるみたいでどうにもと
知り合いたての文学のひとに話したところ、すんなり受け取られ勘所をついた表現で応じられ、
やはり文学のひとは言葉のひと、よく通じるやと思いきや、
このぐらいはマツモトヒトシをよく観るので対応できる、などと
礼儀正しく言われてしまったことがありました。ちーん。

かつての通院先で、ちり紙で腕を撫でられたことがありました。
緊張した面持ちの先生がおもむろにティッシュペイパーを一枚とられて一方をよじり、
私の腕にすーっと這わせていかれたのですが、
私は何をお答えすればよいものかわからないまま、およそ感想を求められているのだろうと「皮一枚むこうの感じ」と言ってみたのでした。
先生が動じられ、動じながらも変わらぬ眼光をやどしたままのまなざしで、ひりひりしているのかと確認され、
私はそうだと答えつつも、表面はひりひり(過敏)だけれどもぶあつく一枚隔てられている感じ(鈍麻)も同時にあるかもしれない、などとみずから発した言葉を解釈しながら思ったり。
その後に続けられたいくつかの質問に対しても、自覚症状として患者が語る、私の知覚についての的確な情報は伝達できなかったのかもしれません。
けれども、だからといって何なのか。

とまどいが起こるまえに、すでに支えられていました。
問いかけが生まれながらもう応えられている。言葉になるまえの声が聴かれている。
私には見えていない何かが見られている。
見ようとしなくとも見たくなくても見てしまう、見えてしまう。倫理的なまでに。

それからの悪化、回復、変動、長患いとなればなるほど、そのときを想い出しては背中がしみました。
そのとき、それからも支えられてきましたし、いまもこのさきも慰められる。

経過が長くなるにつれ、息は浅くちいさくなり、世界は痛みと呼吸だけになる。
眠るための体力も尽きてくる。もがくこともしなくなる。
痛いと感じることが面倒、痛みのなかでぽかりと目を開けている。
すこしばかり呼吸が楽にできると、いまの世界が変わる。
いまがすこしでも楽に過ごせることで、いまの生活ができる。
いまの休息が今日の体力、明日の体力になり、明日の生活がうまれる。
そんな患者を知っている、医療者の身体。

意志をもつよりも0.5秒先に行為はすでに開始されているのなら
手を伸ばそうと意図するよりも以前に手はすでにいつも出されていて
そこに身体を持っているだけでもう何かが為され始めている。

先生に呼ばれて患者さんの目がひたりとゆるむのを、先生の姿を見つけてふっと息をもらすのを、わたしも同じ目をしている、と思いながら見ていたことがありました。
先生の処置はとても丁寧で行き届くと患者さんがゆるゆると話しながら息をつくのを、わたしも息をつきながら聞いていたことがありました。
そんな医師と患者を冷静に時折はしらじらとごらんになっていた看護師さんが好ましかったです。