ケア3題

その1 ぶんしんの術

望・聞・問・切の四診が東洋医学の診断の基本らしいのですが
そのなかでの聞診は患者の「音声、言語、呼吸器、臭い」を医師が聴いたり嗅いだりして診ていくことを言うようです。
患者さんの声の張りや話しぶり、息づかい、におい。

診療で患者を聞くとはナンダロウ。
話を聞くとはナンダロウ。声を聞くとはナンダロウ。
そもそも聞くとはナンダロウ。

客観は主観のスペクトラムのうち、などとどこかで習ったように思うのですが、
およそ医学のサイエンスは確率過程の話、そこで何らかの「これ」という基準があるらしい。
そんなメディスンにおいて「聞く」とは何か、そこで何が為されているのか、長年の経験だとか相性だとか直感といった言葉で語られがちな「これ」という感覚がサイエンスとしてあまり研究もなされていないように思えるのですが(ワタシが知らないだけなのでしょうかな)、どうなのでしょう。
わたしたちの日常にサイエンスは追いつくことがないのだとしても、そんな感じがします。

望は見る、聞は聞く・嗅ぐ、問は問う、切は触る。
その四診をもって聞く、そんなロボットがつくれたらすごいな。


その2 こぶらがえるの心

まだ梅雨だった季節のしばらくぶりの治療の際に「こむらがえりのような」と言われて「こむら」と唱えたら
先生がふっと笑って「いいえこむらというのはふくらはぎの一部の名前なんですけどもね」などとおかしそうにおっしゃるので
私も診療台に横たわったままふふふふふっと笑ってしまいました。腹筋ひくひく。

もうずいぶん以前の話になりますが。
かつての通院先の診察で「こむらがえりのような感じですか」と尋ねられ「こむら?」と聞き返してしまったことがありました。
「ひっさつコブラがえり」みたいな無理なワザでもあるのだろうかとまわらないアタマで懸命に考えはじめた私に
「水泳を長時間していて足が攣ることがあるだろう」などと具体的な例示を足してくださった先生は的確で教え上手。
泳ぐことができて泳いだことがある、そして足が攣ったこともある、そんな生活の経験からの理解。
そうして私は「こむらがえり」という言葉を学びました。

いつだったか記入した問診表の設問のうち、いまだにわからないのが「千枚通しを通される」「きりを揉みこまれる」だったか。「拷問のような」というのもいまいちわからない。

どんな目的で何を知ろうと意図しての設問なのか、患者のワシにはわからない。
何をデータとするのか何のためのデータなのか、患者のワシにはわからない。
質問のなされよう聞き取りのありようから目の前の医療者が取りつつある像をできうるかぎりリフレクシヴに理解しようと努めながら
治療の文脈において私は患者となっていく。

アンケートによる調査では、設問を読ませて答えさせることで教育や啓蒙活動ができる、アンケートの行為そのものが調査対象者に影響を及ぼす…などとむかし授業でちらりと習ったおぼえがありますが。
問診は患者に語彙を与え、概念を学習させる機会でもある。

「今の痛みは10分の3」などと患者さんが話しているのを聞くと
ああ、あの定規みたいなのね…などと「痛みスケール」を想いうかべて理解するのですが。
いつからか「10分の3の痛み」の表現を暮らして生きている。

「こむらがえり」という言葉を耳にすると、かつての主治医の先生を想い出します。そしてふっと笑います。
どこで出会った言葉なのだろう、だれが使っていた言葉、どのようにして私が話すようになった言葉なのだろう。
私がもとから持っていた言葉なんてないのだから。


その3 いやじゃの法

こんなのだから着られる服が限られてもう、アウトオブファッション!になってしまっていやだわ、
外へ出かけるのもおっくうになって、気が滅入ってしまっていやになっちゃうわ、もう、いやだわよ!
…などと病院でおとなりに座っていらした患者さんが話しかけてこられたことがありました。
浅い息をしていた私でしたが、とてもチャーミングなマダムのおはなしにすっかり楽しくなって顔をほとんど覆っていたマスクの内側でむふむふ笑っていました。

身体の感覚がしっかりしていて食べる着る住まう遊ぶの日々の暮らしがしっかり楽しい。
だから病気になってしたいことができなくていやじゃー。不自由があるのがいやじゃー。いやじゃー。いやなのじゃー。あたりまえのことじゃー。

どうしたって美味しくないものは美味しくない。
美味しくないものを美味しくないー!とあれこれ言いながらいただくのも楽しかったりします。
「患者さんの欲を引きだすのが支援」なのだとエンジニアのおじさまが教えてくださった言葉がいつも思われます。