だるまおとし

見事な秋になっていました。夜はこっくり暗く、雨に濡れる銀杏はあざやかに美しかったのです。
「言語など存在しないのだ」というデイヴィッドソンの言葉がいつも巡っているのだと、むかしあるひとに告げられたことばが耳底によみがえります。

いつだったか立ち話のまま、すっと言葉がでて話しつづけて「難民やなあ」と涙ぐんだよな笑顔で言われたことがありました。
すっと話せる、すっと言葉がでるというのは、とても不思議。
なぜそのとき、なぜそのひととだったのか、誰も知らない。

となりに座っているだけでわかってしまうのよね、伝えてしまう、伝わってしまうのよね。
顔を合わせたときにコミュニケイションははじまっていて、そのあと時間的な経過が生まれてこないことってあるじゃないですか。
出会ったときにはもう既に何を話すかが決まっていて、そう、決まってしまっている。
誰かと過ごして残された、いくつもの言葉が浮かんではめぐります。

もうだいぶ以前のことですが、「物語なんて」と声をきりきりはっていた私に「言葉はほころぶもの、ほころびができてくるものだから」とおっしゃった風のごとくに現象学的Hさんは舞台衣装に犬連れ、ちょうどピーター・ブルックマハーバーラタ」のラスト近く、ダルマの化身である犬をお供にさまよう場面のようでしたが、私にかたまりつかえていた言葉のからまりがすこんと落とされたのでした。それでも言葉はかたまりになりがちなのですけども。
ダルマ落としは脱構築とは異なるのです。なにごとも二項対立ではないのでさー。