ばるたんタロウ

七月です。
先月後半は梅雨らしい雨にめぐまれ痺れました。ぴきぴきびりびりじんじん。
くもりのち雨、雨ときどきエイリアンの季節。

眠っていて身体がぴきぴき攣れていくことがありますが
ぴきぴきぴきぴき手からエイリアンになっていく、そんな感覚をおぼえます。
バルタンさんたちのようなスマートな美男子(性別?)ではなくて、近未来ホラー映画でシャーとか言ってるエイリアンにヘンシン。
でもまあ、変身しきらない。およそ教科書のイラスト通りの変形譚ではありますし、痛みや痺れは苦しいですしぐったり疲れますけども。
固まらないよう治療を受けて、ほぐれてはまた固まる、その繰り返し。

目を閉じると反復のうちに彫りこまれた残像がシャーと言っているのですが。
もう長いあいだ治療をしていただいている先生の手、そのときの治療の痛みの感覚もおなじ場所にあります。
診察でぼんやり手を眺めていたら先生にほわりとかけられた言葉、見せあった腕、この手に触れた手の記憶も、おなじ場所にともにある。

君だけじゃあないんだぜ、君のほかにも重みのついた学習回路がいろいろいてるんだぜ…などと
シャーに言い聞かせていたらもっと遠慮していってくれるんじゃないかと思っているのですが。
それでも、シャーとともに眠り、シャーとともに目覚めます。
シャーは私のポテンシャル、潜勢力ともいうのでしょうか。

リスク・マネジメントと言ってしまうと防災感覚になりますが、
私の内なる自然はシャーなる自然なのですかな。
シャーになってもならなくとも、また別の何かになることになっても、
どうなっていっても自然といえば自然。

身体がどんなかたちになり、どのような表現をとっていくのか。
どんな手があり、どんな言葉があるか。
誰といっしょにいるか、なのかもしれませんな。

シャーになってもそのときはそのとき、君が嫌いってわけでもないんだ。
そう自然に思えるぐらいが望ましいように思われます。

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バルタンは着ぐるみのハサミが重いからあんな身ぶりなんだ、なんて説があるそうです。
わたしも自然にバルタン身ぶりをとっている時があるので納得しましたが、腕が重い、外して担いで歩きたい、などとはバルタンさんは思われることはないでしょうな。ワレワレのクールなハサミとは異なるのである。

「ワレワレの身体は歴史的身体である、手を有つのみならず、言語を有つ(※1)」
…などとバルタン・アクセントで話してみると素敵。

「ワレワレが歴史的身体的に働くといふことは、自己が歴史的世界の中に没入することであるが、而もそれが表現的世界の自己限定たる限り、ワレワレが行為する、働くと云ひ得るのである(※2)」

「環境がワレワレの死し行く所であり生れ出る所である時、即ちそれが世界である時、生命の独立性がある。そこに生命の具体的実在性がある。ゆえに具体的生命は歴史的であり、社会的である。生物種は民族となり、ゲマインシャフトとなる。ワレワレに対するものは、客観的表現の世界として民族的であり、社会的である、更に理性的として客観精神的である。ゆえに私は世界の底に、私と汝とが相逢ふといふことによつて、歴史的社会が成立すると云ふのである。環境即世界なる実在界は個物の相互限定の世界でなければならぬからである(※3)」

…バルタンさんに夢枕に立ってもらってニシダなど朗読していただけると学習が進みそうです。
でも「ワレワレはニシダを好まないのである」「ワレワレはサルトルが好みである」なんて言われそうです。なぜサルトルなのかしらぬ。

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※ 西田幾多郎 哲学論文集第ニ「論理と生命」、西田幾多郎全集第八巻、岩波書店、1965年
(←初出:『思想』第170,171,172号 昭和11年7,8,9月)より
※1および2 324頁-325頁より抜粋
※3 288頁-289頁より抜粋
旧字体新字体へ変更。また「我々」→「ワレワレ」へ変更)