身ぶりとじかん、そしてストーリーについて

像といえばわたくし、このところはもっぱら「ラオコオン像」をごろりと想い浮かべます(像といってもイマージュとしての形象ではなくて彫像ですけども)。

トロイの木馬を疑わしいと思ってしまったラオコオンさんが「ええい邪魔をするでない、おまえたちオダマリ」などとお怒りになったアテナさんのおつかいで海からあがってきた蛇さんたちにご家族ともども絞めあげられてしまう、そんな神話のおはなしの解説付きで見るからかどうなのか、像である皆さんの表情や筋骨の具合などたいへん痛そう苦しそうなのですが。

その瞬間を永遠に絞められつづけるラオコオンさんたちには「いたたたた」「あがががが」とか言えるような時間はあるのかないのかハテハテホウ、そんな議論がムカシからあるようです。

時は流れるけれども、時間が流れるというのはどうか、時間というのは時のあいだ…などとお話しされていたある先生のお声の響きを想いながら(『存在と時間』ならぬ『有と時』ですな)、
「あ」とも「が」とも言い終えることがなく認識可能な音とならない、時間とならないその瞬間が像となっているのであるならば、そんな瞬間には痛みがあるのかないのかハテハテホウ、原印象の把持などないではないのかハテハテホウ…などと思ってしまったりしています。

腕の一部がない状態で発掘されたラオコオンさんのその腕がどんな身ぶりだったのか、議論のうえで復元した腕を付けたり付け替えたりされているそうですが。

…じつのところは神話じゃないぜ、にょろ〜ん♪むぎゅ〜ん♪などと竜宮城で歌い踊ってるんだぜ、なんてストーリーを読もうとおもえば読めてしまうのかもしれません。そのほか「三人がかりでヘビの長さを測ろうとしたんです」「大蛇で大縄跳びがしてみたかったんです」「ごく単純にラオコオン対アナコンダ」「伝統的ウミヘビ漁をしています」などと読んでしまえるストーリー(いや御免なさい)すべてに即した腕を付けねばならぬことになったならばたいへんですが、「まとめて千手で表現しちゃいましょうか」なんてことには決してならないのは、それは人体に忠実なヘレニズム(←そんな問題ではないですね)。「面の皮が光って」が誤訳されて「角が生えて」となっていたために聖書に忠実にアタマから角を生やしているミケランジェロのモーゼ像のお話など想い起こされます。

ストーリーを読むというのは、その行為の目的と、行為においてもたらされる働きこそが要であるのであって、
そして読み込むワタシはどのようでワタシの功利や目的はどんなだか、
誰と誰が誰に向かって、どのような目的で…などの限定の自覚が倫理としてひつような時と場合がありますな。

なんだか妙な像をごろごろ作りあげてしまいました。
そういえばむかし「バルタンセイジンはサバルタン♪」とか言ってたねえ…などとおしゃべりしていたせいでしょうか。
「誰が誰に向けて語っているのか」なんてカルスタ・ポスコロな物言いもその当時の流行として流していましたが、現在においてとても実戦的、効力がある言葉だったりしています。