身ぶりのおんがく

三原弟平『カフカ・エッセイ カフカをめぐる七つの試み』平凡社、1990年より抜粋(234頁-236頁)

カフカの「非音楽性」

〈眼の人間〉〈耳の人間〉というふうな言い方はいつ始まったのだろう。ドイツの文化圏でそうした考え方が広まるにあたっては、ゲーテあたりにその元凶があるのかもしれないが、カフカは自分を「眼の人間」だと思っていた。あまりにも「視覚的」な素質であると。のみならず、音楽の才能がないことを自他ともに認め、吹聴していた。…(中略)…

 このようにカフカは音楽からは完全に締め出されている自分を感じていたようだが、音や音楽への道は、しかしカフカの作品においては決して閉ざされていない。…(中略)…すべては音であり音楽である。音楽に対し拒絶されている自分を感じるゆえにか、カフカは音楽の探求を、いわゆる〈音楽好き〉には思いもおよばぬ方向にまでおしすすめる。
 たとえば、最初にあげたあの〈眼の人間〉〈耳の人間〉といったふうな考え方を無効にしてしまうような〈音楽〉に対するとらえ方を、『ある犬の研究』においてカフカは示している。この物語(?)の語り手である「ある犬」は、少年のころ突然七匹の音楽犬に出会ったことから、その生涯の回想を語り始めるのだが、その七匹の犬たちは「話をするのでもなく、詩をうたうのでもない、そろいもそろって苦虫をかみつぶしたように深い沈黙をまもっている。が、その大きな沈黙の中から、まるで魔法のように音楽を浮かびあがらせたのである。すべてが音楽であった、足のあげ下し、頭のふり向けぐあい、走ったり、休んだり……」。
 つまりこの「ある犬」は、七匹の犬たちの一挙手一投足の身振り(Geste)に、あまりにも大きく鳴り響いている音楽を聞きとったのである。
 以下に述べることは、このこととどれだけ通じているのかわからないが、筆者は最近この<身ぶり>と<音楽>のことでおもしろい体験をすることがあった。…(中略)…
 しかし、何度か繰り返しこのビデオを見ているうちににある発見をすることになった。…(中略)…消音にしてビデオを見たのである。するとこのほうがはるかにおもしろいのだ。…(中略)…
 というのも、どうやら自分は、あのコマの動きやキートンの身ぶりの中に流れている、カール・デイヴィスの音楽よりはるか精妙で、はるかに豊かな〈音楽〉を聞いていたらしいのである。われわれは普通は意識はしていないが、実は眼と耳に分化する以前のものとして、こうした〈身ぶり〉を強烈に体験しているようなのだ。カフカは、少なくともその作品においては、音楽をそうした次元の〈音楽〉にまでおしすすめている。自分の書くものは形象(Bild)にすぎないというカフカに、「しかし形象の前提には見ること(sehen)があります」とヤノーホは言う。するとカフカは、「私の書く物語は一種肉眼を閉じることだ」と言ったことがあるが、この言い方を借りるなら、カフカの〈音楽〉とは、「一種耳の穴を閉ざすこと」と言えるのかもしれない。〈音楽〉は、カフカにあっては単に音楽ではないのである。……

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「無音即興60分」のダンスを何度か観たことがありました。
足音、息づかい、床の軋み、空気の揺れ。
観ていることをときおり忘れて、眺めている。

目を閉じないこと。
そのダンサーのワークショップで言われたことがありました。
目を閉じないで下さい。
また別の演劇のワークショップで言われたこともありました。
目を閉じていると、自分の世界に入り込んでしまうから。
そうではないから。

私たちが普段している体験を見ようとしても、見ようとする見方のように体験してはいないのなら
「一種肉眼を閉じること」「一種耳の穴を閉ざすこと」で浮かびあがってくる体験があるのかもしれませんな。