おさるのもんしんから

富山太佳夫『おサルの系譜学 歴史と人種』みすず書房、2009年
「路地と帝国のはざまに」より抜粋(←初出:角山榮・川北稔編『路地裏の大英帝国平凡社ライブラリー、2001年)

 ヴィクトリア時代の文学に登場するのは大抵等身大の人間たちである。その彼らを理解し、その時代の文学をよりよく読むために私が必要としていたのは、彼らが「日常生活のレベルで、何を食べ、何を身につけ、何を考えてきたのか」を教えてくれる歴史記述であった。……そして一九八二年に、『路地裏の大英帝国』に出会う。そして川北氏の「あとがき」を読む。あのときの驚きと安堵と、そして奇妙に気の抜けたような感覚を今でもよく覚えている。(22頁)

 言うまでもなく、「生活社会史」への方向転換はイギリス都市生活史研究会のみの着想ではなかっただろう。すでにあちこちで大きな期待を込めて社会史という言葉が口にされていたし、アナール学派の仕事の紹介も始まっていた。……

…そうした新しい研究をにらみながら振り返ってみると、しかしながら、『路地裏の大英帝国』に欠けていたものもよく見えてくる。もう一度川北氏の言葉に戻る。「何を食べ、何を身につけ、何を考えてきたのか」―冗談をこめて言うならば、これは関西人の発想かもしれない。食う、着る、思考するの三つが日常生活から浮上してくるのは。私は東京人ではないし、そんなものになりたいとも思わないが、私ならば、食べれば出す、着れば脱ぐ、考えれば狂うといった連想をしそうである。つまり、日常生活の中にひそんでいる衛生問題、セクシュアリティの問題、そして犯罪や狂気の問題の方向へ関心をひきずられてしまいそうだ。しかし、これにしても私の独創というにはほど遠い―ミシェル・フーコーの一連の仕事を歴史の場で具体化するための話題というにすぎないだろう。

 この本を読みながら、私は繰り返しフーコーの問題提起を考えた。この本の執筆者たちは彼の特異な歴史記述をどう評価したのだろうか、それとも無視したのだろうか。アナール学派と称される人々さえフーコーから眼を背けるようにしていた時代のことではあるし、E・P・トムソンののようにアルチュセール嫌いを公然と表明することがひとつの見識として通用したイギリス史のことだから、何の関心もなかったのかもしれない。要は資料実証主義であった。それもまたひとつの頑迷な理論的フィクションであるという反省はなかったかもしれない。……もちろん資料実証主義歴史学のひとつの、あくまでもひとつの、妥当な方法であることは否定できないから、「生活社会史」がそれを守ろうとするのは当然といえば当然である。しかし、その場合には、解明すべき対象を生産し搾取される労働者から消費する民衆に変えただけで、フーコーディスクール論、表象論が誘発したはずの歴史学の問い直しを素通りしてしまうことになるのではないか。……(23頁-24頁)

 『路地裏の大英帝国』に対する最大の不満は、そこから大英帝国が欠落しているということである。これが奇をてらった指摘でないことは、この一○何年かの歴史学と文学の研究を見ていれば容易に納得できるはずである。……
 問題ははっきりしている、イギリスの路地裏の生活様式と価値観がどのように植民地に持ち出され、植民地の物と人と文化がどのように路地裏にまで流れ込んで、互いに相手を規定しあったのかということである。…(25頁)

 ブロードサイド(瓦版)から、いわゆる文学まで。新聞、雑誌から、いわゆる図像まで。これらの研究者の仕事を通して、歴史学の相手にすべき資料なるものが異様なほどに拡散してくる。一対、資料とは何なのか。資料批判を言い、資料実証主義を云々する前に、一体資料とは何なのか。……『路地裏の大英帝国』を手にしたとき、私はその問題の前にいた。そして苛立った。なぜ歴史学者はここまでやすやすと<資料>の分析に埋没してしまうのか。この本についての私の思い出はつねにこの苛立ちとひとつになっている。(26頁-27頁)

※原文よりルビ省略(「あくまでも」に傍点あり)

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しばらくぶりです。梅雨入りしましたが、からり爽やか。

建物の裏手で不良青年のごとくタバコをふかしていたNさんにぼらぼらぼらと言葉にならぬ言葉を放ちながらよれよれと石段に腰をおろして見あげた、まだ五月の真夏日の影と光のコントラストのくっきりまぶしい青空。
咲きほころぶ笑顔がこころ鮮やかに美しい先生のお部屋の開けっぱなしのドアから通りがかりにずんずんお邪魔してするする話しはじめてながながおしゃべりしながら吹かれていた、クローバー咲く庭園から吹きぬける風。
一緒に座っていて黙ったまま注意ぶかく支えられたり黙ったまま黙らせた誰かに言葉がざわめいていたり、そんなこともありました。
ずるずる暮らしていますが、風に吹かれて呼吸します。
「この季節は患者さんにとっていちばん過ごしやすい季節」などと教えられたことがありますが、
そうではない季節、それだけではない今のこの季節が確実に浸みています。

先月末の診察で診療台から身を起こすのをそっと助けてくださった先生がふっと目もとで笑いながら教えてくださった通り、体力がついてきていました。意外な感じもしましたが、みっしりしています。
寝てばかりで体重が落ちていっていたのが増えて増えつづけている、電気毛布があると楽。
そういった食欲や睡眠などの問診のあいだ、先生が私の状態を描いていかれるのを見ていたり、
先生のまなざしを感知しながらわが身を確かめたりしているように思うのですが(とても治療的です)、
食べる寝るなどの生活の基本的なところから、そのひとの生活世界をつくりだす制度など見えてくるものがいろいろあるように思います。
ただの問診がモンキリのおさるさんでおしまいになるのは惜しいです。