ぶるぶる

疲れました。ぞくぞく寒気に目覚めては息を継ぎ、もがきながら眠りました。夏場であってもなくてはならぬ電気毛布を忘れたせいでしょうか。溺れながらも潜りつづけているようですが、よく寝ています。

「冬眠したいです」と笑って泣き言をいうと「それでしたらもっと脂肪を蓄えて大きくなりませんと」と言われ「冬は好きなのに辛いです」というと「冬好きの真偽が知れまんな、といったところでしょうか」と言われながら過ぎ越した冬がありましたが、ふっとみずからを笑ってしまうフモール。みごとな個我の軽やかさ。想い出してはふっと笑います。

しなやかな樹木のようなSさんに手を合わせ、すりすり触覚刺激。
私のこわばりもおびえも受け止めず受け止められず、流れている。Sさんの流れにいざなわれ、私が流れる。
Sさんとなら怪我をしない。そうして伸ばさない手を伸ばし、踏み出さない足を踏み出して、身体が動いていく。
のびやかなSさんの身体が見えてくる。私の身体が見えてくる。リハビリ。

リハビリってへんな言葉、住み直しをしなくても、今だって住んでいる、日々刻々と住んでいるのに…なんて訴えていたこともありますが(「患者さんの訴え」なんて医療語みたいですが、「犬が痛いと訴える」という言い方には親近感をおぼえますわん)、日々リハビリ。そればかりで何年になるのでしょう。

ひやりとしながら、手を出す。足を踏み出す。どのあたりが無理になるのか、わからない。
動きすぎたら悪化や進行につながる、動かさなければ動かせなくなる。
どの幅でどの程度の生活ができるのか。この身体でどのように人と関わり暮らせばよいのか。
「考えないで動けることが大事」と言われたら、考えないと生活が送れないのだけれどと思い、
「考えて動いて下さい」と言われたら、考えてもわからない、疲弊した頭で考えろというのは酷ではないかと思う。
日常生活は送れても社会生活が難しいと言われるところ。

私にそっと手をみせて、病気なのだと教えてくれたひとがいました。
私の途惑いを見透しながらそっと渡してくれた言葉は、ぶるぶるふるえよろけていた私の足場になりました。
それだってもう何年前のことになるのでしょうか。
あきらめを強いられてきた厳しさと寂しさ、痛みをよく知った、しなやかな強さ。優しさ。
悪くなることもあれば良くなることもあるなどと言ってもらっても響かないのは、かつて響いた言葉が響きつづけているからなのかもしれません。
古びれることのない言葉。

「日常生活を送ることですよ」「生活のなかでどうにかしていかなあかんな」「長いことかかりますよ」
「僕らにとってはね、痛みがわからなくなるのが問題」「僕は治ると思っているよ」「治らないから」「困らないから」。
医師からかけられた言葉。治らない患者さんを診るのに、それぞれの医師の診療方針のようでもある言葉。
いつも新しく実用的でありつづける言葉。

医療制度のなかで「一対一の二者関係」と政治的な目的をもって使われる言葉を耳にすることもありますが(責任の帰属先としての行為主体を設定するためですかな。「仕事」であるので「責任」「評価」が問題となるからでしょうかな)、誰かと誰かの関係は、じっさいのところは一対多、一対他、多対多、他対他とでも言える関係だとおもわれます。社会的存在たる人間ですからな。
患者さんをみればどんな治療の手がはいってきたかが見えるのだと聞いたことがありますが。
あなたの向こうに見る、あなたを育てた誰か、あなたが愛した誰か、あなたに傷をあたえた誰かの痕跡を、いとしく思うことがあります。
日々触れているけれども、見ていないと思っているものがたくさんあるように思います。