行為のてつがく、我と汝のポイエシス

三木清「哲学的人間学」(『三木清全集 第十八巻』岩波書店、1968年)より抜粋 
※原文から新字体へ変更、傍点等の表記を変更


…現実の行為は意識を越え、内的世界から抜け出る。行為がそれによって内的世界から抜け出るものは身体であり、身体性の原理を無視して行為は考へられない。真の行為はもちろん自覚的でなければならぬであらう。併し行為は単に主観的なものでなくて客観的なものであり、内的であると共に外的なものである。従つてそれは単に内から知られ得るものでない。もし心理が行為の原因であると云ふならば、逆に行為が心理の原因であると云ふこともできるであらう。人間は内的人間であると共に外的人間である。自己が何であるかを我々は自己に就いての瞑想によつて知り得るのでなく、却つて行為に於て我々は自己を知り得るのである。我々の存在には我々の主観的な自己理解に関はらない客観的な意味がある。…(141頁)

…かくて主観の概念にはIch-Es(私―それ)といふ根本的関係が、これに反し主体の概念にはIch-Du(我―汝)といふ根本的関係が相応するであらう。ところでただ「それ」もしくは「もの」に対する私は真の自己ではあり得ず、「それ」もしくは「もの」に限りなく吸収されることができ、やがてひとつの「それ」もしくは「もの」と見られるに至る。或はまた逆に「それ」もしくは「もの」は自己の現はれに過ぎないものとして見られるに至る。前の場合は客観主義の、後の場合は主観主義の立場になる。然るに私と汝の関係に於てはかくの如き主観主義も客観主義も共に不可能である。汝はどこまでも内在化し得ぬものであり、私は客観化し尽すことのできぬものである。私と汝は独立なものとして相対し、汝及び汝への関係の実在性を除いて私は私であり得ない。主体は主体に対するばかりでなく、客体にも対するのでなければならぬと云はれるであらう。しかるとき、私に対する汝のみが客体であるのでなく、私自身もまた客体である。私は私にとつては私であると共に汝にとつては汝であり、汝は汝にとつては私であると共に私にとつては汝である。私も汝も主体的・客体的なものであるが、単に客体的なものであるのではない。もともと主体的・客体的である私と汝とはそれ故に互に表現的(傍点)なものとして相対するのである。いはばただ一重のものでなくて内部と外部が一つであるものは表現的である。主体に対して客体と考へられる如何なる「もの」も、単なる「それ」でなく、汝の意味があり、従つて単なる「もの」でなくして表現の意味をもつてゐる。行為はつねにかかる表現的なものによつて行為に動かされる。行為は本来私と汝との間に於ける出来事(傍点)である。私と「それ」との間には経験(傍点)があるにしても出来事が生ずるとは云はれない。ところで私と汝とが表現的なものとして主体的・客体的なものであるならば、私も汝も、単なる私の立場に於て或は単なる汝の立場に於て成立することができぬ。単なる客体としてでなくまさに主体的・客体的といふ性格に於て私と汝とが成立するのは、かくの如き私と汝とを包む社会(傍点)に於てでなければならぬ。私と汝とはいはばただ私と汝としてあり得るものでなく、却つてその成立の根底をなす第三のもの、即ち社会に於てのみ私と汝であり得るのであつて、この根源的な意味に於て行為も本来社会的である。かくして人間学は人間の自覚であると云つても、個人的自覚でなく、社会的自覚でなければならぬ。(143頁-145頁)

……我々は人間学の陥り易い傾向を有する人間中心主義に対して警戒しなければならぬ。自己意識としての個人的自覚は人格の認識根拠ratio cognoscendiとなるにしても、その存在根拠ratio essendiではあり得ない。私の存在の根拠であるものは、同時に汝の存在の根拠であることなしに、私の存在の根拠であることもできぬ。なぜなら私はただ汝に対してのみ私として限定されるから。我々は我々の存在の根拠であるものから社会的に限定されてくるのである。かかる存在の根拠が最も深い意味における「社会」にほかならない。その際云ふまでもなく社会は主体として考へられねばならぬ。社会は、それに於ては個人が却つて客体―或は寧ろその表現―として見られるような主体である。そこでまた社会的立場を離れて真に主体的な立場は存し得ない。社会は我々の存在の根拠として我々にとつて超越的である。自覚が単に自己意識と考へられないやうに、人間は決して単に人間から理解され得るものでない。「生を生そのものから理解する」とディルタイが定式化した生の哲学の方法は我々のものであることができぬ。
 人間学に於ける我々の立場は行為的自覚の立場である。それは人間を身体から抽象することなく、しかも主体的に、且つ社会的に把握する。主体的と云つても客体的な見方をその弁証法的契機として含むものでなければならぬ。人間は内的にして外的な、或は主体的にして客体的な存在である。行為的自覚の立場にして初めてかかる人間を全体として捉へ得る。……(146頁-147頁)

…先づ、行為は身体的である。アリストテレスは精神を形相の受容者即ち物から形相のみを純粋に受取るものと考へたが、物そのものに我々が衝き当るのは身体によつてである。身体は単なる能動性でなく、つねに受動性の意味を含み、従つて抽象的な能動主義は行為の身体的規定を無視することになる。次に、かかる能動主義にあつては、行為の主体としての人間は主観化されて世界の外に置かれ、このやうな抽象的な立場から世界に働き掛けるかの如く考へられる。そのとき行為する人間は世界のうちに入つてゐない。然るに現実の人間は世界のうちに棲み、世界の中で働いてゐる。我々の行為は一方どこまでも環境から規定されると同時に他方どこまでも環境を規定してゆく、行為は主観の客観化、客観の主観化である。作用が先づあつて存在が作られるのでもなく、存在が先づあつて作用が生れるのでもない。純粋作用から存在を導き出すことも、存在の属性として作用を考へることも、共に間違つてゐる。ホルデーンの云ふ如く、構造と作用は分離し得ない。構造と作用とが一つであるところに生命の統一がある。行為の分析が人間存在の構造の分析から別つことができず、人間存在の分析は行為の分析から別つことができぬ。……(165頁)

 それ故に行為はすべて表現的行為の意味をもつてゐる。行為は単に所謂プラクシスでなくポイエシスの意味をもつてゐると云ひ得るであらう。そのことは行為が行為として内に留るものでなく、本質的に外に出るものであるといふことを意味してゐる。固より行為は外に表現さえるのみでなく、メーヌ・ド・ビランが意欲は外部に現はれると共に自己自身に内面的に現はれると云つた如く、内に表現される。…

 ところでディルタイの表現論には重大な制限がある。彼に於ては表現の問題は理解の立場から考へられ、行為の立場から見られなかつたのみでなく、彼の表現論は解釈学的であつた。その際解釈学的といふことは特定の含蓄のものである。彼の解釈学は、歴史的起原から云つても、理論的実質から云つても、有機体説を基礎とし、従つて内在論的な立場に立つてゐる。我々は固より表現理論から理解乃至解釈の問題を抽象してしまふ一面性に陥つてはならぬが、他方我々はその場合に於ても所謂解釈学的立場の内在論的な見方を取ることができぬ。そして内在論的な見方は表現に就いて何よりも真理の問題を提起することによって破られねばならなくなるであらう。蓋し真理の概念は超越の概念を含み、真理はつねに超越論的なものに関係附けられてゐる。

表現をそのものとして真と語ることは特に、それを理解の立場からでなく制作の立場から考へるとき必然的に要求されてゐる。理解は一の意識過程であつても、制作はさうではない。制作はただ知ることでなくて作ることであり、作ることは単に意識の内部に於て起り得ることでなく、作るためには我々は身体を必要とし、外部の存在に働きかけて、我々の外部に作品が出来上がるといふことが問題である。そして我々は作られたものそのものに就いて真であるとか偽であるとかと語るのである…(335頁―336頁)

                                                                                                                            • -

三木さんいわく、西田てつがく最接近の『哲学的人間学』。
昭和12年頃に中断されたまま未完成で残されたそうな。
 
内在的な心理学、内在的な解釈学、観想の哲学から、行為のてつがくへ。
行為というのは制作、ポイエシス。『構想力の論理』の技術哲学へと重なり流れてゆきます。

表現が人間の行為を規定する、なんてところも、「我―汝」なところも、西田てつがくなのでしょうかな。(この「表現」というのは、西田先生や三木さんが批判するところのディルタイをいまだ踏襲するとも言われているようですが)

「行為は本来私と汝との間に於ける出来事である。私と「それ」との間には経験があるにしても出来事が生ずるとは云はれない」。
   * * *

ディルタイを質的研究にどうこう、という題名をちらりと見かけて、なんだかなと思い煩いました。さっくり批評できるだけの教養と知的体力が私にはないのです。うぬー。
質的研究と言われるのは量的/質的という枠組みベースの用語であって、研究という理論という科学の話であって、とりわけ用語の用法に厳密な哲学から論じるには、科学のリテラシー科学社会学の視座があることが大事なことのように思われます。それで引っ張ってくるなら「生」ではなくて科学論、もしかしたら「理解解釈」の認知科学、社会におけるヒトの行為についての「科学」ではないのかなー、すっぱり「心理学」とは言わないのかなー、などとも思うのですが、どうなのでしょう。理論としての説得性をもたせることが思考の目的なのだとしたら。わたしの理解解釈にあなたを取り込んで、わたしがあなたの物語を構築し、わたしがあなたの生についての理解を語ることでわたしの生の実感をうたいあげることが目的ではないのだとしたら。
「質的」という言葉にたいする私の違和感がつよい、それだけの問題なのかもしれませんが、どうなのでしょうな。

ほんらい、人類学や社会学で教えられるようなsociology of medicine/sociology in medicineという言い方、そんな二項対立を惹起させもする言葉は、同業研究者という限定された社会で実地的・実戦的な分別処理として機能をもつことはあっても、同時に常に、研究者自身へのしんらつな皮肉、自戒の響きをもつものではないでしょうか。
「諸悪の根源は専門分化、アマチュアリズムを忘れた哲学は死」という、ある先生の言葉を想います。

philosophy of/philosophy in という言葉が、あるのでしょうか。
御用学、あるいは「お客様のニーズに合わせて哲学書から言葉をひっぱってきます」なんてソフィストは哲学の歴史、哲学学としては「おおいにあり」なのでしょうが、倫理の学としてはどうなのでしょう。研究者の行為じたいの道徳というのも、どのように議論されているのでしょうか。「応用人類学」という名称について議論がなされた時代のあとで、「応用倫理学」という名称を耳にしながら思います。これも諸学が通る道、なのでしょうか。むーん。