ものをもらって

すこし動きすぎて疲れて寝ていたら連休の前半が明けました。
もう四月もおしまいの今日のことばのメモ。

その1 ものもらい
ぱきっと美男子な男子に「久しぶりですね、めばちこ出来てませんか」と言われて「よくわかりましたね、ものもらいです」と目蓋をすこしばかりめくって答えましたが、方言は楽しい。私はモノモライのくぐもった語感が好きです。

その2 きむらびん
木村敏『新編 分裂病現象学』(ちくま学芸文庫、2012年)読みはじめ。この厚さの文庫は扱いづらい読みづらい頁も繰りづらい。しかも私は手が痛い。でも持ち歩ける。場所も取らない。すごいな文庫。
内海健さんがあとがきを書かれていて」と紹介されて購買意欲にかられた本だったのですが(なんですかなそれは)、読まず嫌いでした。
キムラさんご自身の現象学の限定をちゃんと書かれていたり、基本的なところがおもしろい。すぐ読めるのにあまり読まれていないようなのがおもしろい。
ハイデガーはこういうところで足りぬ、ヤスパースの「了解」は底が浅いわ届かんわ、誰それのこの考えもここは評価できるけどここがアカン、ワシはそうは考えぬ、ワシはこのように考える、といった感じで(←もちろんこんなランボーな物言いをされているわけでは決してなくて、あくまで私のランボーな解釈です)すごいなー。
精神医学のことなど、過程やら人格など基本概念からして私は知らずわからずですが、ワカランのでおもしろい。
キムラさんの「人間」がうずまいているけれどもよくワカラン、精神医学から離れていかれたヤスペルス先生を読まんとワカランな、これは新カント派の流れなどいちど整理して見てみないとアカンな、と思ったりするのは私の傾向ですかな。

その3 はなすことはできなくてもかたることはできる
ひとつめ
かたることではなさずにいたり、かたらせることはしてもはなさせはしない、そういうことだってあるんじゃないか。かたりのミュトスが時間を流していく、それを物語りの暴力ともわたしは思う。
ふたつめ
ケアにおいて「語りを聴く」という舞台設定がなされる、それがよくワカラン。
そもそも「語りを聴く」というのが役者と聴衆の関係のように思われますがな(「話す」と「聴く」が分離したのはトーキー映画や電話など19世紀のテクノロジーのおかげとか言いますけどもな。われわれの身体はメディアにつくられているのですがな)。
語りを聴かず騙りを聴かせずとも話したらいいのじゃないか、なんて素朴に思ってしまいます。
「話し」では不可能ななにか、「語り/騙り」では喪われてしまうなにかがあるのでしょうか。
中上健次が老いてちいさくなった母親に昔話を執拗にねだっている姿を連想しましたが(こんなアイデンティティクライシスのありようというのもいまじゃ古典に分類されるんでしょうかな)、すっかり大きなオジサンになった息子にひつこくねだられて何度も繰り返されてきた土地の話を昔話を何度もしてあげる、それは「語り」なのか「話し」なのか。「語り」と「話し」の異なり。
いつだったか「物語から小説へ」とコメントをいただいて、そのまま口ごもったままでいることを(それが私の応答として承認されたことを)想い出しました。