ざむざむざむざ

目が覚めると虫になっていた、というのはカフカのザムザ言説ですが
ザムザといえば、なぜか唐揚げ、殻ごとパリパリに揚げられている姿を想像します。塩ふってめしあがれ。

「あした目が覚めたら動けなくなっていたらどうしよう、ではないですよ」と、きまじめな顔つきの先生に言われたことがあります。かつての通院先で、ずいぶん前のことですが。
そのときは、患者はこのように考えて不安をもつのだと教科書に書いてあるのだろうな、と理解しました。そして、私は動けなくなることがあるのかもしれない、とも。

たしかに、目が覚めると「腕がない」こともある。どうやって動かすのだっけ、と、動かし方がわからない。
そんなときは、身体の動かせるところから、揺さぶりをかけていく。あたま、くび、かた、せなか。もぞもぞ、ゆさゆさ。どこかが動けばいい。体の向きを変えてみる。片腕が動けば、動かないほうの腕に擦りつける。じーっと痺れが出てくれば、だいじょうぶ。血が通ってくるかんじの痺れ。だんだん腕になってくる。
目覚めたときはたいてい、無感覚の痺れというよりは、ずきずきぎりぎりじんじんの痛みや痺れ、なのだけど。
この体からずるりと、脳と脊髄だけ抜け出したら楽になれるかも、鮎の骨抜きみたいに。でも抜けたとしたらどちらが私の本体になるのだろう、脳か体か、いいえヤドカリじゃないんだから、どちらもひとしく身体だ…と、幾度も思ったことを思うことも、いつしか日常となりましたが。

「治りたいと思わないの」と、かつての通院先で、あたらしい主治医の先生に尋ねられたことがあります。これもまたずいぶん前のことですが。そのとき先生がご覧になった私が、あまりにひどかったのでしょうか。そのときおそらく私は、「治る」という言葉を耳にしてわけがわからず、といった様子だったように思われますが。
しばらくのちに思い返して、「治したいと思わないのか」とは言われなかったことが気にかかりました。治そうと思っても治せないから、治療法がないから、治りたいという表現なのかと、思ったり。

「治らないから」と、いまの先生にほわりと言われて、生活していける、と思ったことを想い出しました。
生活していける、暮らしていける。この先生に診てもらいながら、この先生の患者さんたちが生活しているように。治らないことも、それがあたりまえで。治っても、治らなくても。