げんてんかいき

小熊英二「神話をこわす知 歴史研究のモラルとは?」
『知のモラル』小林康夫船曳建夫編、東京大学出版会、1996年より抜粋(83項‐85頁)

神話をつくる知とこわす知

 そもそも、「神話」とは何でしょうか。それは、現代の自分たちの確信やアイデンティティを強めるようにつくられた歴史像であり、世界観だと私は思います。
 先に挙げた戦前の学者たちは、「わが民族は、古代においてこういう政策をしてきた。だから現代でも同じようにできるし、またしなければならない」といった語り方をしていました。こうしたものは、現在でもよくみられるものです。しかしこれは、煎じつめていえば、現代の必要から歴史観をつくり、その歴史観で現代を正当化するというものにすぎません。もし彼らに、自分がどのような時代の空気のなかで歴史を書いているのかの自覚があれば、ここまで単純なトートロジーにはまりこまずにすんだはずです。
 そしてこの問題をかつての自分に投げ返していえば、私自身が時代の空気を反映して、「戦前の日本は単一民族神話にとらわれていた」という神話をもっていたことになります。私は、単一民族神話にとらわれている明治いらいの日本を問い直す、という意気込みで研究をはじめたのですが、最終的に問い直されたのは、現代に生きる自分自身の神話でした。そしてその神話を解体する過程で、私は現代をちがった角度からつかみなおすことになったのです。
 ある神話を解体する過程で、自分の神話に気づく。これができたことは、私にとって幸運であったと思います。そして、自分や自分の党派だけは神話を知っていて、他の人びとはすべて神話にとらわれているなどということは、まずありえないことです。自分が神話をもっていることに自覚を欠いていると、じつは自分の神話でほかの神話を攻撃しているだけとなります。昨日までの革命家があっというまに新国家のエスタブリッシュメントになってしまうように、ひとつの神話を攻撃した努力じたいが、固定化してあらたな神話になるでしょう。私のやった研究だって、「単一民族神話は戦後のもので、戦前はちがった」という表面的な結論だけが単純化されてくりかえされていけば、やがては神話としてあつかわれる日がくるはずです。
 自分が神話をもっていることに自覚的でない人は、傲慢になりがちなものです。自分の神話をふりまわしたいために、たたいても安全そうな相手を断罪したり、アウトローを気どりながら「戦後民主主義の神話」や「東京裁判史の神話」などを嘲笑する(嘲笑はまじめな批判とは別ものです)人がいますが、そうした行為には私はとても共鳴できません。そして一方で皮肉なことに、神話の担い手はこうした傲慢な強者ばかりではありません。神話はつらい日常を生きるうえで確信と慰めを与えてくれるものですから、民族主義の支持層がしばしば社会のなかで下積みの人びとであるように、弱く希望のもてない人はそれに頼りがちなのです。こうした神話が好ましくないとしても、弱者がよりどころにしている神話をただ頭ごなしに裁いて打ち壊すだけで事足れりとしてよいかといえば、私はいささか躊躇せざるを得ません。自分が神になって人を裁きたい強者と、神に救いをもとめたい弱者、このどちらの人びとも神話の担い手であるといえましょう。
 私は、人間が不完全なものである以上、神話をまったくもたないことは不可能だと思います。しかし、では人間は神話から逃れられず、たがいのそれをぶつけあう以外の関係をもてないのかといえば、私はそうは思いません。人間は神話から無縁になることはできなくとも、自分の神話を自覚し、相対化することはできます。その自覚があらたな神話になってしまうまでの一瞬、私たちは神話から自由になり、ぶつけあっていたたがいの神話の殻のすきまから、相手にむかって開かれることができるのではないでしょうか。大切なのは、その一瞬の新鮮さを忘れずに、外界と対話し、時には相手の神話の主張にたいして謙虚になって、自覚の過程をくりかえし続けることではないでしょうか。

…(中略)…
 この稿で述べてきたのは、最初から最後まで、たったひとつのことです。私は、知には2種類あると考えます。ひとつは、人びとに答えと確信を与え、敵を指し示し、特定の方向に導く神話をつくる知。そしてもうひとつは、問いを発し、立ち止まりながら対話をはかり、神話をこわす知。どちらが世の中で求められているかは、いちがいには言えません。対話よりも、まずは闘わねばならないのだという立場も、十分にありうるからです。しかし私は、神話をこわす知を選びたいと思います。そしてこわす対象は、何よりもまず自分自身の神話、より正確にいえば自分という媒体をとおしてあらわれたこの現代社会の神話です。神託として答えを提示するよりも、過去や対抗相手を裁くよりも、まず自分自身が打ち壊され、迷い、考え続けるその過程を示すことで、世界へ開かれる可能性を見せること。それが、いくたの神話が希望と悲劇をまきちらして滅んでいった近現代の苦い経験をうけつぎながら、なお知を行使しようとする者のモラルのひとつのあり方だと私は思うのです。…

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寒風吹きすさぶ荒地からもどってきた文学のひとにムーミンのついでを聞きました。
そのあたりの創世神話からいえば巨人族のなりそこないがトロールトロールは暗く忌まわしい感じで橋の下なんかにいる。ちいさくて地中に住んでいる妖精とは別物。
ムーミンは完全をめざせば巨人族。でもそんなムーミンは見たくないんですなー。
原作とは異なって大衆化したムーミン世界が牧歌的に暴力的なのは、私たちの世界の投影だからなのでしょうなー。

ごめんなさいこの子アジア人を見るのが初めてで、なんて言われたことがありました。
むかしのその地の侵略者が「人間を吊るす木もなければ掘り込む窪地も沈める水もない」と言ったとか言われているような荒地でのことでした。
母親にまとわりつきながら私を見つめてくる女の子に、にんまりオリエンタルな笑顔を返しておきましたが、さぞかし妖怪のように見えていたことでしょう。ここは妖怪も妖精もごろごろ住まう土地だから、というのは私の神話なのですが。

神話にしたがって振る舞えば、その一瞬は安全ではあります。
理解不能な不気味な他者であるよりは。あなたにも、わたしにも。
けれどもそれは神話の暴力そのままをなぞって生きること。

対話がのぞめず、対話をのぞまず、ムーミンづらで生き延びる。
けれども、みずからのムーミンぶりがどんなだか、だれにどのようなムーミンづらをさせているのか。
とてもきほんてきなところだとおもいます。