ろんりとりんりのれとりっく

三木清「解釈学と修辞学」(『三木清全集 第五巻』岩波書店、1967)より抜粋
(収録:波多野精一先生献呈論文集『哲学及び宗教と其歴史』昭和十三年九月、岩波書店

※原文より新字表記へ変更。ギリシア文字を表記せず、仮名読みへ変更

……現代に於ける解釈学の哲学への導入によつて多くのことが為し遂げられたのは否定することができぬ。それは特に、従来の、自然科学に定位した方法乃至論理によつては考へられない人間及び歴史に関する哲学の方面に於て功績があつた。しかしまた今日、解釈学的方法に対する不満が広く感ぜられるやうにやつてきたことも事実である。我々は解釈学の立場を超えることを要求されてゐる、固より我々は解釈学によつて為された貴重な諸発見を無視することは許されない。かくの如き状況に於て、久しく忘却されてきた修辞学に再び注目することは何等かの新しい道を拓くことが期待され得ないであらうか。…(140頁)

解釈学的方法に対する主要な反対は、それが理解の、従つてまた観想の立場に立つて、行為の、乃至は実践の立場に立つものでないといふところにある。この反対は、解釈学がもと既に作られたものの理解の方法として発達させられたものである限り、当然である。解釈学は過去の歴史に対する場合自己の固有の力を感じることができる。解釈学が歴史といふべきものは本来現在の歴史であり、我々自身が現在の行為に於て作るものであるとするならば、解釈学は歴史の論理として不十分であることを免れないであらう。解釈学は存在の歴史性について語つてゐるが、歴史性とはこの場合主として過去から生成してきたといふことを意味してゐる。解釈学は歴史的なものは表現的なものであるといふことを明かにしたが、それは表現についても理解の立場に立つて行為もしくは制作の立場に立つのではない。表現の概念は理解乃至観想の立場とつねに結び附くと云ふことはできぬ。ただ解釈学の立場に於ては前者は後者と密接に結び附いてゐる。ディルタイは体験、表現、理解といふ三つのものの内的な結合を考へたが、しかし表現そのものは単なる体験とは異る行為の立場から、また単なる理解とは異る制作の立場から考へられることができる。歴史性の意味が過去の歴史とその理解の立場から現在に於て歴史を作る行為の立場に移して考へられねばならぬやうに、表現の意味も解釈学的立場から離れて表現作用そのものの立場に於て捉へられねばならぬ。
この場合修辞学は我々に必要な手懸りを与え得るやうに思はれる。修辞学は端的に表現に関係してゐる。我々は表現するために修辞学を用ゐるのである。修辞学は表現の理解に関係するのでなく、却つて表現の作用に関係してゐる。そこに元来ともにロゴス(言葉)に関係するものでありながら解釈学と修辞学との性格的な相違が認められる。次に修辞学は表現作用の立場に立つものとして表現の技術性について知らせる。修辞学は何よりも技術である。……単に表現的な言葉のみではない、あらゆる表現的なものは技術的に形成されたものである。……我々の言葉はすべて修辞学的である、言ひ換えれば技術的である。言葉は本来技術的なものである故に表現的なのである。修辞学は意識的に用ゐられるのみでなく、日常の言葉も無意識的にせよつねに何等か修辞学的である。言葉は人間の本質に属すると云はれるが、そのことは表現性が人間存在の根本規定であること、そして人間存在の表現性はその技術性と一つのものであることを意味するのでなければならぬ。(141頁−143頁)

アリストテレスは修辞学の主題は行為であるといふ極めて重要な見解を述べてゐる。修辞学は物についての思考であるよりも行為についての思考である。言葉は元来社会的な行為に関するものである。物についての思考も社会的に伝えられることを欲する限り、就中それが人間の行為に関係するものである限り、何等か修辞学的であることを要求されてゐる。…ただアリストテレスは行為を十分主体的に捉へず、なほ対象的客観的に見た。そのために彼は、行為は必然的なものでなくて大抵さうあるものであり、修辞学的推理即ちエンチュメーマも必然的なものからの推理でなくて蓋然的なもの(ト・エイコス)からの推理であると考へざるを得なかったのである。しかるに行為は単に客観的に捉へられ得るものでなく、却つて行為は主観的にして客観的なものであり、かかるものとしてその本質に於て技術的なものである。…(149頁)

…解釈学の論理がなほ経験の論理であるに反して、修辞学の論理は関係の論理であり、出来事の論理である。修辞学は私と汝の関係を基礎としてゐる。…(152頁)

…修辞学は人と人との関係の上に立つものとして根源的に社会的である。それ故に修辞学は単に論理的でなくてまた倫理的であり、その証明は倫理的証明を含むと云ふことができる。かやうな証明の要素は真実性である。…(152頁)

…修辞学は弁証法を根底とする形の論理である。修辞学的な形は弁証法的な形である。かかるものとしてそれは単に私に属することなき超越的なものである。「魂が語るや、すでにもはや魂は語らない」(Spricht die Seele, so spricht, ach, schon die Seele nicht mehr.)。言葉がロゴスといはれるのは、それがパトスに対する意味に於けるロゴスであることを謂ふのでなく、却つてそれが超越的なイデー(形)であることを意味するのでなければならぬ。解釈学はディルタイに於ての如く全体性の概念を明かにしたが、その全体性は、その内在論の立場とも関連して、自我乃至体験の全体性の領域に近く止まつてゐるに反し、最近のゲシュタルト心理学に於ては全体性は対象的なもの、客観的なもの、従つてまたある超越的なものとして見られてゐると考へ得るとすれば(Vgl.Martin Scheerer,Die Lehre von der Gestalt,1931.)、修辞学の論理はかくの如く解釈学的立場の内在論を破つて超越するものでなければならぬ。言葉は人と人との「間に」落ちる、それは私と汝との間に於ける出来事である。… (155頁)

…まさにかかるものとして言葉は表現的である。言葉の精神と考へられる構想力はロゴスとパトスとの統一を謂はばロゴスの勝利としてイデー的なものに於て形成する作用であり、かくの如き構想力は本来超越的なものでなければならぬ。言葉は私に属し或は汝に属するといふよりも私と汝との「間に」於ける出来事として、汝と私とを関係附ける一般者として考へられる社会の表現である。社会は語るものであると共に聴くものである、言葉は社会から出て社会に落ちる。しかし社会は自己を言葉に於て表現することによつて自己を個人に於て表現する。人間は言葉と共に社会から、しかも独立のものとして生れるのである。…言葉は人間存在の社会性の基礎であると共にその個人性の基礎である。私は汝に対して語り、汝に対して自己を表現するのであり、汝は私に対して表現的なものである。すべて表現的なものは表現的なものに対して表現を行ふというのが表現の根本的構造である。…すべての認識(Erkennen)はかくの如き表現的なものの承認(Anerkennen)である。…修辞学に於ては論理と倫理とは一つのものである。(156頁-157頁)

…解釈学は歴史的意識を明らかにしたと称せられるが、しかしそれは理解の立場に立つて行為の立場に立つことなく、出来事としての歴史の意味を明かにすることができなかつた。修辞学の論理は解釈学に欠けてゐた社会的意識を獲得するのみでなく、修辞学の論理は歴史的世界の論理を具体的に解明するであらう。(158頁)

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同一段落において(149頁から151頁)、論理展開というのでしょうか。

 修辞学は固より単に心理の技術ではない。…
 …修辞学の論理は行為の論理そのものを現はすと考へることができる。
 …修辞学の論理は行為的直観の論理を現はすと云ふことができる。
 …修辞学の論理は根本に於て構想力の論理でなければならぬ。
 …行為的直観の論理は構想力の論理であるであらう。

三木さんの文章は「どどどどどどど」と読んでしまえることが厄災のようでもあります。
なにやら得体の知れぬまま「どどど」と読めてしまう。ひかれていってしまう。

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三木さんのもちあじを消化するための、言葉をひとくち。焼魚には大根おろし

「…哲学を現実的実在による現実的実在の自覚の学としてとらえることによって、「暗い谷間」の時代に三木の思想や西田の哲学は、それだけ現実と深く関わりえたのであるが、しかしまさにそれ故に、錯倒した現実を合理化するという機能をも果たすことになったのである」
「…すなわち、かれは絶望的な「客観的必然性を主体化」し、錯倒した「現実の中に探り入ってそこから哲学的概念を構成し、これによって現実を照明する」ことによって、錯倒した現実そのものを是認し合理化するという役割を一方では果たさざるをえなかったということである」
(宮川透『西田・三木・戸坂の哲学 思想史百年の遺産』154頁、155頁。講談社現代新書133、1967年)