せいどとじっかんと私

久野収鶴見俊輔現代日本の思想』岩波新書(1956)
「日本の観念論 ―白樺派―」より抜粋

高村光太郎もまた白樺的な人物の一人である有馬頼寧に指揮された初期の翼賛運動のよびかけにたいして、その善意の純粋性を信じて、身を投じたのである。そして、このような善意が、くみこまれた制度のワクの中でゆがめられ、別の方向に用いられる可能性を計算することができなかった。
 この計算の盲点は、敗戦によってさえ、白樺派の人々によって気づかれていない。白樺派には「制度」という観念がかけていたのであり、これをぬきにして世界史を見る限り、人間相互の本来の善意と善意がこんがらがって世界大戦が生じたとしか考えられず、自分たちの戦争責任を理解することもない。ただ一人、高村光太郎は、戦争責任を自分の一身にせおい、岩手の山奥の吹雪のふりこむ小屋にひとりすんで、自分の手で自分を水牢の刑に処した。こうした痛烈な自己反省は、高村以外の白樺派の人には見られない。…

…「制度」という観念が白樺派にかけていたことが、白樺派コスモポリタン的観念にもとづく現状批判を不徹底に終わらせたすじみちを見よう。彼らは、制度が人間をつくる仕方を見てとることができない。したがって、人間各個のもつ実感なるものが、いかに現在までの制度によって条件づけられたものかを割引して評価することができない。この故に、実感をよりどころとするということは、自分の皮膚の下にまで入りこんでしまった旧社会の習慣に結局はよりかかって、判断の基準とすることとなってしまう。…

……おそらく、白樺派最大の成功は、参加者各自の個性に適した人生のコースをさがしあてるという方向で、落伍者を出さぬ運動の形をつくったことである。だが、このことも、白樺の直接の同人である上流階級層についてのみいえることで、白樺の間接の産物である「新しき村」などにおいては、多くの落伍者が出ている。白樺派の観念論的な方法は、単一の階級内の組織の原理としては役だつが、多階級的な組織の原理としては役だたず、そこでは無意識的に人をだます結果に終わってしまう。…