遊びをせんとて

花田清輝「「実践信仰」からの解放」(『花田清輝著作集Ⅳ』未来社、1964年)より抜粋

 丸山真男の『日本の思想』(岩波講座『現代思想』第十一巻)のなかで述べられている「理論」と「実感」の問題をめぐって、高見順が、『社会科学者への提言』(『中央公論』一九五八年五月号)をかき、さらにまた、その高見のエッセイを踏まえた上で、若い世代の社会科学者や文学者たち(加藤秀俊、田口富久治、江藤淳大江健三郎橋川文三)が、「『実感』をどう発展させるか」(『中央公論』一九五八年七月号)という座談会で、それぞれ、忌憚のない意見を発表している。わたしは、そのいずれにもざっと眼をとおしてみたが、さて、そのあとで、いちばん、心にのこったのは、「ともかく僕らが、実感的などという形で、思想形成の基本原則というか、有効な組織論の前提となる認識論というか、きわめてベイシックな問題を改めて論じなければならないということは、なんといっても現代の政治と思想の状況がそれを強いるんで、考えてみればひでえもんだという気もしますね。」という座談会における橋川文三の嘆声であった。まったく「ひでえもんだ」とわたしもおもう。ひと昔前までは、「理論」と「実践」の関係が問題になっていた。しかるに、いまでは、その「実践」が、さりげない顔つきをして「実感」にスリかえられ、しかも前にもまして大真面目に論議されているのである。…

…正直なところ、わたしもまた、それほど「実践」を好んでいるわけではないのだ。たぶん、毛沢東は、その稀なる例外であろうが、理論的に実践家である人物は、概して、いかなる理論家よりも非実践的である、というのが、わたしの年来の主張であって、とりわけわれわれの周囲においては、「理論信仰」や「実感信仰」以上に、「実践信仰」が、害毒をながしているような気がわたしにはするのだが、如何なものであろうか。そのような「実感信仰」家の「めくらの実践」を、冷然と拒否したことによって、はじめて丸山真男の「理論」や高見順の「実感」のあらわれたことをおもうならば、それらのものを、無造作に、なんの役にもたたない、ただの遊びだ、などといって、あっさり、カタづけてしまってはいけないのかもしれない。いや、そもそもただの遊びを、つねになんの役にもたたないものだと簡単にきめてしまってもいいものであろうか。
 『梁塵秘抄』に、「遊びをせんとや生れけむ。戯れ(たわぶれ)せんとや生れけむ。遊ぶ子供の声聞けば、我が身さえこそ動がる(ゆるがる)れ。」という平安朝の白拍子のうたったという歌がのっている。いっぱんに、白拍子が、みずからの罪業を悔恨してうたったものであろうといわれているが、わたしは反対だ。かの女は、子供ほど遊びに徹することのできない自分自身のふがいなさを嘆息しているのではないかとわたしはおもう。芸術は、むろん、遊びだ。それは、生産力の一定の発展段階において生じた閑暇の所産にすぎない。科学もまた、遊びである―などというと、社会科学のほうはともかく、自然科学のほうは、技術をとおして、直接生産力に関係があり、遊びというのは当らないと立腹するような向きもあるかもしれない。しかし、大いなる転形期にのぞめば―つまり、それまで無意識のうちに踏襲されてきたルーティンが、さまざまな領域において、相いついでこわれはじめるような時代にいたれば、科学技術もまた、それが編みこまれている実用的な生産面から、一応、解放される必要があるのである。そして、そこから、それの遊戯化がおこり、遊びは、一方において、「理論」の探求となって未来の「実践」につながり、他方において頽廃して、そのまま、ほろびさってしまう、というわけだ。たとえば芸術家でもあり科学者でもあったレオナルド・ダ・ヴィンチなどは、相当、遊びに徹していたほうではあるまいか。…

…「実践信仰」など、さっさと清算してしまって、もっとみずからの遊びに徹してみたらどうだ、といいたいのだ。うたごえ運動も遊びである。生活綴り方運動も遊びである。さまざまなサークル活動をめぐって、「理論」がどうの、「実感」がどうのと、しきりに饒舌をふるっているのは、一部の文学者や社会科学者たちだけであって、大衆は、とうのむかしから、それらの運動が、ただの遊びだということを、ちゃんと知っているのだ。遊びを馬鹿にしてはいけない。ある演劇サークルで、スタニスラフスキー・システムにもとづいて、ストライキの芝居を熱心に練習し、舞台においてではなく、「実践」の場において、演技をふるってみたら、たちまちそのストライキに勝ってしまったということである。

※原文よりルビ変更、省略(「ひでえもんだ」←「ひでえ」の傍点を省いた)

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高見順にしても、丸山真男にしても、あるいはまた、わたしにしても、戦争中、「実践」の場がせばめられていたおかげで、多少なりとも遊びの精神を身につけることができた」キヨテルさん。七高の学寮でなさったという「わたしはイタリアのフィレンツェの出身で」との自己紹介も、はんぶん嘘ではんぶん本当なのでしょう。