「わたしの精神の目をひらいてくれた注意」のいちれい

『アラン著作集 第八巻 わが思索のあと』(田島節夫訳、白水社、1960年)より

…わたしの父は一種ディオゲネスのような男で、わたしをかれの二輪馬車にのせてつれて歩いたものだった。わたしはすぐに手綱がとれるようになったし、だんだん力がつくにつれて、かれの獣医の仕事を助けもした。かれはその道の大家であり、ひとからもそうみとめられていた。わたしはたくさんのことを手ずから教わった。つぎは、わたしの精神の目をひらいてくれた注意の一例である。ある日かれは、五百メートルほど先を走っている一頭の馬をさして、わたしに言った。「あの馬がめっかちなのがわかるかね」、―「めっかちって、どうしてわかるのですか」、とわたしはきき返した。―「ばかだな。あの馬の片方の耳をよくみてごらん。くるくるまわりながら音をさぐっている。あの側がめっかちなのだ」と父は言った。またあるときは、まるでひとり言でもいうような調子で、フランスからたくさんの馬を買うアメリカ人がペルシュ産の馬の移植にさっぱり成功しないわけを説明してくれた。「アメリカには、フランスのような乾いた牧場が少しもない。湿原ではこちらの馬は足の病気になる。水疵病というやつだ。あれにかかると爪先(つまさき)で歩くようになる。それで腰つきがだいなしになる。二、三年たてばもう駑馬(どば)だ。」獣の形も丘の形のようなものだということが、わたしにもややわかってきた。で、この日から、わたしはたえずダーウィン主義者として思考しつづけたのであった。…

※原文よりルビ表記を変更

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獣のかたちも丘のかたちのようなもの。
環境の思考でやんす。
わたしも耳をくるくるしておりますが、どんなかたちのケモノになっているのでしょうか。