あめはふるふる

Rappelle-toiと呼びかけられ雨を浴びながら詩人の言葉を聴きました。
水底に眠ることばへ沈みこむように潜りすすみ、泳ぎきったのではなく流されてしまった、そんな講義。
記憶しているのだけれども忘却していることばを想いました。

ベンヤミンに「歴史哲学テーゼ」を託されたアレントは、亡命に挫折したベンヤミンの死後、ポルトガルの港でそれらを読んだのでしょうか。遺稿となったベンヤミンの言葉は、アレントアドルノをはじめ数々の友情に運ばれ、受容と解釈の歴史を経て、そうして私は縦書きの日本語でベンヤミンを読んでいるのでしょうか。

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気温10度を目安にしていたのを、うっかり忘れていました。
気温低下で、身体のこわばり、痛みや痺れが違ってきます。骨から肉がもげそうです。
ときには、夢を見ていたのではなくて、私はもがいていたらしい、というのを、目覚めたときの痛み、痺れ、こわばり、引きつれ加減、疲弊の具合、顎のだるさや寝汗、もろもろから妥当ラインを推測します。
もがく体力がある、ということでもあるのですが。

まいにち鳥さんに内臓喰われては夜のうちに蘇り、翌日また鳥さんに喰われるプロメテウスのおはなしみたいです。
プロメテウスさんがいらした神話の時代には「どうしてワシがこんな目に」なんて実存的な問いは存在しなかったのでしょう。それと同じく私も「どうして私が」などと思うことがなく、友人のひとりに、普通は「どうして私が」なんですよ、と言われましたけれども。
けれども、プロメテウスの肝臓ついばむ鳥さんの一羽ぐらいは「ワシはレバーが嫌いじゃあ」と言っていたのではないでしょうか。そう言いながらまいにちついばんでいたのではないでしょうか。私もレバーは苦手です。

どうしようもないことはどうしようもないまま、眠り食べ呼吸をして、誰かと歩いたり座ったり食事をしたり話したりしながらしてもらいながら、暮らしています。志向性じゃなくて、質量の感じ。そのときそのときの、断片。

何かを経験と呼ぶためには、何かが風化されるための年月が必要なのかもしれません。