タロウと忘却と

花田清輝「咽元過ぎれば熱さを忘れる」(『いろはにほへと』)より
花田清輝全集 第十巻』講談社、1978←初出:『毎日グラフ』1961年11月5日号

太宰治は『お伽草子』のなかで「年月は、人間の救いである。忘却は、人間の救いである」といって、太郎は、玉手箱のふたをとって、ものものしく年をとってしまったために、かえって、救われたのだと主張しました。なるほど、それにも一理がないとはいえません。だが、龍宮城での乙姫との幸福な生活まで、さっぱり、忘れてしまうことが、はたして太郎にとって救いだったといえるでしょうか。いや、幸福な生活ばかりではありません。手っとりばやく不幸な生活を忘れてしまうので、人間は、永遠に救われない、といえばいえるのではないでしょうか。

わたしもまた、以前、舌をやくような熱い湯をのんだことがありました。しかし、その湯が、わたしののどを通過したあとまで熱かったかどうか、いまでは、きれいに忘れはててしまいました。いったい、わたしは、救われてるのでしょうか。救われてないのでしょうか。

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「忘却」と「タロウ」を忘れぬために。

花田清輝、すてきです。
エッセイが好きです。うふうふ読みます。ときどき吹き出します。
すこし哀しかったりもします。ええ、好きなのです。

むかし、花田清輝「近代の超克」を読もうと、大学図書館でゴホンを開いたときのこと。
裏表紙に昔の貸出カードが残っていて、そこには、憧れの先輩のお名前が…!どきり、胸をつかれました。
阪神間モダニズムとファッシズム研究なのよー。谷崎潤一郎とイタリア未来派とグタイにネオ・ダダなのよーー。清潔思想とディスタンクシオンと美と暴力の近代なのよー。うきー。うがー。うらー。
花田清輝の風貌と、先輩の澄んだ知性に研究テーマがスパークして「ときめき」ました。めきめき。