花と風と黄砂と、そしてあんぱんについて

「桐の花の季節だ」そう言われてふりかえりあおぎみた桐の木は、ゆらりやわらかに花をつけ葉をひろげていました。
地に落とされた花の萎れのうつくしさ。私は知らなかったのです。

まだ日の残る帰路、黄砂まじりの風に吹かれながら知人友人まだ知らぬ人と連れだち歩いていて、
ある先生が振りかえられてそのまま後ろ向きに歩かれながら眺めつづけていらした木を
私も歩きながら振りかえり引きつけられてそのまま後ろ向きになりながら見送ったのですが、
通り過ぎてもなおこころをとらえてやまないその花のその木のたたずまいに奪われたこころを取り戻そうと
「桐の花」と先生がおっしゃったその名を私も唱えてみました。

ある花の季節になるとその花が好きだったひとを思い出す、だったのか、
ある花の季節になるとその季節に死んだひとのことを思い出す、だったのか、
そのどちらも意味していたのか。
この花もだれかの底に沈む花なのでしょうか。

彼の家はポータブルなのだ、彼はいつでも故郷に住んでいる、という言葉を思いました。
「何処であれ私が行くところが私の故郷」だと、私が思うようになることはあるのでしょうか。
この土地のこの風の匂いこの土の香りをひどく懐かしく寂しくおもう私は、homeを持つからhomelessになるのだと、時には唱えてみるのですが。
ここは私の場所だ、私の占める場所だ、先にいたのは私だ、なんてのは領土問題。
プロパーなプロパティ、なんてあるのでしょうか。
分かち合うなんて分配正義のまえにもあとにも、所有の問題があるように思われます。

* * * * *

アンパンマンは「僕の顔をお食べよ〜♪」なんて凄いことをおっしゃいながら迫ってこられるそうですが(おそろしい他者ですがな)。
顔というのは見るものではなく聴くもの、声なのだそうです。
声には息がある、なんて思いました。
君の顔をちぎって僕は生きるよ、アンパンマン。出遭ってしまったかぎりは。

それにしても、いつでも「顔をすげかえてくれる」ジャムおじさんの存在が気にかかります。モモタロさんにキビダンゴ持たせたおばあさんの存在とかぶるようでもありますが(おばあさんはキビダンゴ契約を予測あるいは予定されていたのでしょうか)、パンも餡もおじさんが捏ねてつくっておられるのです。人造あんぱん。しかもあんぱんは腐敗するのです。