ジーンさん

森枝卓士『味覚の探求 美味しいってなんだろう』中公文庫、1999年より抜粋(171頁-173頁)

ユージン・スミスという写真家がいた。…

そのジーンさん(と、私たちは呼んでいた)は、私が高校に入ったばかりの頃、水俣にやってきて、住み着いた。当時、星の写真を撮るために、カメラを買ったばかりだった天文写真少年は、偉いカメラ使いがわが町に来たらしいという漫然とした知識だけで、会いに行った。…

…そんなことから、ジーンさんの水俣取材を見続けた。結果的にはその関係で、外国と縁の深い大学を知り、入り、やがてメディアで仕事をするようになったのだが、それはまた別の話。
 私が大学に入った年の秋、ジーンさんは仕事を終えて、帰国した。さらに、一年ほどだったか、ニューヨークでの作業の後、『ミナマタ』と題された写真集が発表された。つまり、一冊の本をまとめるのに、四年かけたということである。
 それだけでも十分の驚きだが、本一冊のために四年というのは、日本でもありうる執念かもしれない(仕事として成立するかは難しいが)。が、雑誌の十ページのストーリーのために、半年かけたという話は、絶対にありえないはずである。
 それが『ライフ』誌の数多い名作の中でも、フォトエッセイという手法を確立したといわれる、「スペインの村」という作品である。死んで横たわる老人を中心に、取り囲む家族のまるでレンブラントの名画のようなその写真は、そのストーリーの見開きである。
 この話を作るために、二、三ヶ月、スペイン関係の本に埋もれて過ごし、実際にフランコ統治下のスペインに行ってから、意図する村を探して二ヶ月ほど走り回り、そしてやっと撮影。これに一月だったか。さらに、暗室作業や原稿書きに一月ほどかけて。
 ずいぶん昔に、拙い英語で聞いた話だったから、曖昧なところもあるのだけれど、とにかく、たった十ページの話を作るのに、それだけのお金と時間をかけたということだった。シュバイツァー博士を追ったストーリーも、アメリカ南部の黒人助産婦の話も同じようなペースでやった仕事だと聞いた。助産婦の話など、実際に自分もその勉強をして、資格までとり、何人か取り上げたことがあるとも聞いた。そこまで、深く関わらなければ、真っ当なストーリーはできないというのである。
 後になって、アメリカの出版界でもユージン・スミスという人の仕事に対する頑固さ、妥協のなさは伝説だったと知った。また、一番豊かでいい時代だったアメリカの、その時代を謳歌していた一千万部雑誌『ライフ』の、取材にかける金の額も、伝説だったことを知った。
 それにしても、私が最初に知ったジャーナリストは、その伝説の人だったので、ジャーナリズムの仕事とは、そういうものだと思っていた。……

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うろおぼえで不正確なのだけれども、吉田ルイ子『ハーレムの熱い日々』の「あとがき」に、ユージン・スミスに「ミナマタはどうか」と近況をたずねたら「彼らは私を心配し、私は彼らを心配しています」と答えたとか、そんなことが書かれていましたっけ。ジーンさん。