セイロガンの香り

紙で指を切りました。先日のことですが。思っていたよりざっくり。
救急箱からいただいた絆創膏はセイロガンの香り。ふんふん嗅ぎながら過ごしましたさ。

知覚が低下しているときに動けると怪我をしやすい。実際にしてきましたし、したのでした。
怪我をしては反射的に今後の負荷と経過が気にかかりひやりとするのですが、「起こってしまったことは仕方がないのだから」「いまできることを」「あとは気分転換」。
これは以前の通院先のせんせいの言葉、これはあの先生の言葉、これは…と、私がもとから持っていたのではない言葉が出てきました。
どうやら私はみっしりと認知行動を教えられてきていたようです。
「言葉は記憶に残るので」、これもある先生の言葉。

私に沈む言葉がうわりと浮かびあがるたびに、時間も私もうわりと攪拌されるようですが、経過がながくなるほどに沈む言葉はさらに深くへ沈み込んでいくようにも思われてなりません。
記憶の想起はひとつの旅路、いずれは鉄道でユーラシア大陸を横断するような旅路となるのでしょうか。
地政学的としてシベリア鉄道ルートによる情報伝達が迅速とされていた時代の話を技術史から教え聞かせていただいたことがありましたが、歴史とは交通。言葉がどのように記憶をなし私をなしうるのか、言語と認知の旅路をニューロな仮説として描いてしまうのもおもしろいかもしれません。あくまで仮説。
「カントいらいなにだってヴァーチャルなんだから」なんて話を想い出しましたさ。
理性には限界があるというのがカントのよいところ。ちゅうとはんぱな理性はやっかいです。かえって手ひどい場合もあるやもな。