ガロア

花田清輝「III 復興期の精神 群論ガロア」『花田清輝全集 第2巻』講談社、1977年より抜粋(←初出:「文化組織」1942年5月)

…… いかにも現実というものは、求めなくとも、しばしば魂と肉体を切りさくものだ。そうして、その結果は、一見、求めて絶ちきったばあいと、たいして変りがないようにみえる。しかし、前者が、裁断の状態に堪えきれず、絶えず再び魂と肉体との結びつきに―いわば人間性の回復のためにくるしむのに反し、後者の望むところは、人間性の脱却以外のなにものでもない。ワイルドの観念的焦燥にすら無縁な、「良心的」人間派のなんと多いことであろう。今もなお、後生大事に魂を肉体のなかにしまい込み、あらい風にもあてまいとするのだ。芸術とは人間を描きだすことであり、道徳とは人間をつくることであり、宗教とは神を人間にまでひき下げることであり―明け暮れ人間に憑かれて、日をおくっているかのようだ。とはいえ、どうしてこういう時代に、魂と肉体との仲がしっくりゆく筈があろうか。肉体のなかの魂は、穴倉のなかの馬鈴薯のように、しまい込みすぎると、ふやけて芽をだす。
 しかし、ここで私は、世のヒューマニストにたいして、とやかくいうつもりはない。人間一般を問題にしながら、やがて自己の状態のみに気をとられ、魂を人眼に触れさせまいとするあまり、ついに人間を回避するにいたる「孤独な」かれらは、人間の組織のなにものであるかを明らかにしたいと考えている現在、殆んど取りあげる必要のない存在であろう。組織が人間的な結合であるという通念にしたがうにしても、魂の重荷を背負ってよろめていているかれらは、所詮、組織とは関係がないのではなかろうか。何故というのに、かれらは人間という実体概念を、あまりにも深く信じすぎているからである。組織がなりたつばあい、人間という概念は、すでに実体概念から函数概念へと置き換えられているのではあるまいか。そのとき、もはや人間の魂と肉体とは切断されているのではないか。それならば、組織を人間的結合と呼ぶよりも、むしろ非人間的結合と呼んだほうが適切であろう。

…(中略)…

 ガロア群論を、新しい社会秩序の建設のために取りあげることは、おそらく乱暴であり、狂気に類することかもしれない。しかし、人情にまみれ、繁文縟礼にしばられ、まさに再組織の必要なときにあたって、なお古い組織にしがみついている無数のひとびとをみるとき、はたして新しい組織の理論を思わないものがあるであろうか。さらに又、再組織された後の壮大な形を描いてみせ、その不能性を証明されると、たちまち沈黙してしまうユトピストのむれをみるとき、問題の提起の仕方を逆にして、まず組織の条件の探求を考えないものがあるであろうか。かれらの人間性を無視して、かれらにむかって突撃したい衝動を感じないものがあるであろうか。緑いろの毒蛇の皮のついている小さなナイフを魔女から貰わなくとも、すでに魂は関係それ自身になり、肉体は物それ自身になり、心臓は犬にくれてやった私ではないか。(否、もはや「私」という「人間」はいないのである。)

                                                                                                                                                                                                                                  • -

『復興期の精神』の出版は1946年ですが、キヨテルさんがルネッサンス期の人間について書き続けたのは、戦時下においてでした。
このような文章は「ドキュメントとして読まなあかんね」なのですが、そのところ私はちっとも読めていないように思います。

…モンティパイソンの映画で、アーサー王が旅の途上で村人に「ここの城主は誰だ」と尋ねたところ「わしらアナルコ・サンディカリストのコミューンなんでね」と言われてしまう場面がありました。「わたしは王だ」と名乗れば「どうやって決めた」「わしは投票してないぞ」と言われ、「湖の貴婦人より剣を授かり…」と王権神授をうたえば「湖にういてる女の人だって?あんただいじょうぶか」と言われてしまう世界だったりするのですが、この時代にどんな分業化が進んでいるのかと村の産業構造が気にもなりましたさ。