こんぱっしょんへ向けて

ハンナ・アレント「集団責任」『責任と判断』ジェローム・コーン編、中山元訳、筑摩書房、2007年 より抜粋(195-196頁)

罪と責任

 自分がしていないことにたいしても責任を負うことがあります。ただし自分がしていないことについて責を問われるとしても、自分が積極的に参加せずに起きた物事について、罪があるとか、罪を感じるべきだというわけではありません。この罪と責任の違いは重要なことですので、声を大にして明確に指摘しておく必要のあることです。……

 歴史的にみて、このような場違いな罪を感じた先例がどれほどあるのかはわかりません。しかし戦後のドイツにおいて、ヒトラー体制がユダヤ人に行ったことに関して、同じような問題が発生しました。「わたしたちの誰にも罪がある」という叫びは、初めはとても高貴な姿勢にみえて、誘惑的なものでした。しかしこの叫びは実際に罪を負っていた人々の罪を軽くする役割をはたしただけだったのです。わたしたちのすべてに罪があるのだとしたら、誰にも罪はないということになってしまうからなのです。

 罪は責任とは違って、つねに単独の個人を対象とします。どこまでも個人の問題なのです。罪とは意図や潜在的な可能性ではなく、行為にかかわるものです。わたしたちが、父親や、国民や、人類の罪にたいして、まとめて言えば自分で実行していない行為について、罪を感じると言うことができるのは、比喩的な意味においてだけです。もちろんわたしたちはこうした罪の行為の結果にたいして代償を払うことを求められることもあるのですが。そして罪の感情、悪しき良心(メンス・レア)、悪しきことをなしたという自覚は、わたしたちの法的および道徳的な判断においてきわめて重要な役割をはたすものですから、このような比喩的な意味では語らないようにするのが賢明でしょう。こうした言葉は、文字どおり解釈すると、いかがわしい感傷性をもたらすだけなのですし、すべての問題をあいまいにしてしまうことになるのです。

 誰か他人が苦しんでいるのをみたときに経験する感情は、同情(コンパッション)と呼ばれます。この感情が本物であるのは、結局のところ苦しんでいるのがわたしではなく他人であることを自覚している間だけのことです。こうした情緒においては、「連帯が必要な条件である」というのは正しいと思います。集団的な罪の感情の場合には、「わたしたちみんなに罪がある」と叫ぶことは、実際には悪しきことをなした人々との連帯を宣言することになるのです。

(原文よりルビ表記変更、「感じる」の傍点省略)

                                                                                                                                                                                              • -

コンパッションの訳語が「同情」というのも難しいところ。アレントの文脈から選ばれたのでしょうかな。
道徳と感情。

他人の苦しむのを知って気分が悪くなることは共感sympathyの一ケース、他方、
他人の苦しむのを知って自分自身の個人的な境遇が悪化したとは感じられないけれども、
他人が苦しむのを不正なことと考え、それを止めさせるために何かする用意があるとすれば、
それはコミットメントcommitmentの一ケース。
sympathyはself-interestの域であり、あなたの苦しみにくるしむ私、あなたの喜びによろこぶ私のsympathyにもとづく行為は、私の効用の追求であり、利己主義的とも言える。そのところ、非−利己的といえる行為は、commitmentにもとづくものである。
ベンガル出身の経済学者、アマルティア・センの言葉でしたかな。正確ではありませんが。


…シンパシイという共感はしたくなくてもしてしまっているもの、エンパシイという共感は意図的-操作的に行なう理解のこと、そのように私は思っているのですが、シンパシイやエンパシイもはたらかないところに共苦というcompassionが残っている、ということもあるように思います。とても大事なところのように思うのです。

あるひとが書かれた文章で、ある先生に「アレントを読まんとあかんね」と言葉をかけられる話を読んで(こんなカンサイベンではないのでしょうけれども)、その先生がcompassionateだと感じたことを想い出しました。苦しみに暗さと煌めき、熱い体温がある。

いつだったか、晩秋の燃えるような紅葉が美しい日に、ある先生とお話をしていただいたことがありました。
私に椅子をすすめられ、ストーブをこちらへ向けて下さって、身体を開くようにこちらへ向けて座られて、そして私はうまく話せない話をしたのですが、ストーブだったのか、先生だったのか、どちらが熱かったのか、わかりません。
そのときにあたった熱さだけは覚えています。