フォネーとロゴスのあいだで
…… 『アウシュヴィッツの残りのもの』でアガンベンは、レーヴィが伝える「フルビネク」と呼ばれていた、見たところ三歳ぐらいの「話すことができず、名前もない」幼い少年の話を取り上げている。…(略)…誰もが「生まれ出ようとしているこの言葉に耳を傾け、解読しようとする」が、「フルビネクの言葉はその意味をかたくなに秘めたままである」。
われわれがここで出会うのは、証言しえないものが真の証言であるという、アガンベンの逆説的テーゼであるが、少年の「声」は、「いまだ意味ではない」からこそ意味があるのであり、意味ならざるその意味こそが問われねばならないのである。
……そもそもこの哲学者には、声と意味とが一致するような言語表現は、あきらかに凡庸さへ陥る傾向があり、思考(への愛)を裏切ることになりかねない、という固くて深い信念がある。それゆえ、声と意味とが緊張関係にあるか分裂すらしている詩的言語(さらに幼児語やオノマトペ、宗教的な「異言(グロッサ)」や「死語」など)の問題にたえず立ち返ろうとするのも偶然ではない。新たな思考が立ち上がってくるとすれば、それは、記号論と意味論とのあいだに横たわる埋めがたい亀裂のなかからなのである。アガンベンが身をさらす閾において、声の否定性はまた、声の可能性へと転じるという両義性を秘めている。
……ポール・ヴァレリーを引きつつアガンベンは、そもそも言語活動とは、何かを意味するよりも前に、誰かが語っているというそのこと自体を示すものである、と述べる。言い換えるなら、「「声」は言語活動の場を開く」。
とはいえ、けっして誤解してはいけない。それは、一般的にそう考えられてきたように、「自我の声」とか「自己自身のもとに現前する意識の沈黙の声」のようなものでは断じてない。あるいはまた、マイノリティや弱者の声といった、アイデンティティ・ポリティックスのかたちで表面化されるべきものでもない。
アガンベンにとって「声」は、同一化や主体化の手段となるものではない。主体化と脱主体化、創造と脱創造―この概念はシモーヌ・ヴェイユの『重力と恩寵』から取られている―という、たがいに引き合う両極性の運動と緊張のなかに置かれるのである。そうである以上、「声」を主体性や同一性、意識や自我の問題へとすり替えてはならないのだ。
(※原文より、文献注釈を削除)
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装丁のジャケ買いというより紙買いをしてしまった本。
物質感というのか、紙が独立してある感じ。どこかしら書物らしさではないものが感じられるのです。