バウムクーヘンのように

更新おこたり、二月も過ぎていきます。
寝てばかりでいたようですが、何をしてきたのでしょうか。
あまり憶えておりません。

師匠がわしわし食されていたお手製三層トリドンのめだまやきがおいしそうだったり、さいきんは老いを語るのに「年輪」と言わなくなったとNさんが話していかれるのを聞いて、以前、"認知症のおばあさん”がしっとりと人形を抱いている姿を「きれいやわぁ」とNさんが言い、そんなNさんがひとを愛でるように私もそのひとに見とれたことを想いだしたり、というのが、今月のまんなかあたり。

先月は、地面にのされ痛みにさかれ、そんな弱り目にアタリメもあったりでぐったり、そんなこんなを異化することもなく過ごしていたような。

まあでも、わたしは憶えていなくても、わたしは憶えているのでしょう。

ひとが生まれて生きて年を取っていくことが、年輪にたとえられるのならば、
わたしはバウムクーヘンのように、くるりと焼かれていっているのでしょう。
分厚かったり薄かったり、焦げたり生焼けだったり、そしてたぶん、わたしのどこかは、
空洞やダマを含んでいたり、層になっていなかったりもするのでしょう。

体調のわるさを、犬にひかれた車のような気持ち、と思いかけて(それは犬ぞり)、「車にひかれた犬のような気分」はわかるような気がしても「犬にひかれた車のような気分」はわからないや、と思うのは、あいてが動物ではないから、なのでしょうか。
ウィトゲンシュタインさんにお尋ねしたら、どうお答えになるのでしょうか。