イマジナティヴ・アクティヴィズム

まだ世界が銀杏色だった先日、アクティヴィストの話を聞きました。

誰にインスパイアされてなんてのはない、わたしが自分でやってきておかしてきた失敗から学んだことを話しているのであって。
やってることはムーヴ・オン、これなのだと。

落ち着きのよい会場で両隣には哲学徒、すっぽり座席に納まって拝聴していましたが、
身体から発せられる言葉にすっかり打たれ呆然として会場を後にしました。

スピヴァク先生いわく、デモクラシーはjudgementのトレーニングに基づいているのだとか。
それにしても、失敗と判断するのはいつなのでしょうか。
そしてその判断は誰によってどのように行われるのでしょうか。
それを判断するのは私なのでしょうか。

いつだったか、きりっと「トライアンドエラー」と主治医のひとりに言われて
もふっと「それでエラーで死んでまうのもありますねえ」と言ったらば
みりっと「それはエラーとは言いません」と言われたことがありましたさ。
たとえエラーであっても僕はエラーとは言わないのだと言われたようなものかと受けとめて好感をもちましたが、
頑張ってもひとつ言ってみれば、生きている限りはエラーになることはできる。

トライアンドエラーでムーヴ・オンというのは、わたしにはきつい言葉です。
ときおり自分が高度専門職業の方々の足もと、シカバネるいるいの類の下の方になったではないかと思うことがあります。
もちろん私の足もとにも、骨を折って下さったひとたちのカバネがあれこれ、私がそれと気付くことがないものもたくさんあるのではないのでしょうか。
でもたいてい、どちらを向いての行動なのかそのベクトルを間違えずにいた骨は、私の骨にもなりますな。
それに私も骨になりながらも、骨として拾われることも多々ありましたな。ホネは大事。
トライにもエラーにも、イマジナティヴな注意深さとエチカが必要なのです。

スピヴァク先生の言葉で、考えていきたいと思った言葉。
おそろしい考えfrighten ideaなのだけれども、リーダーではなく従属者でいることを学ぶlearn how to be a followerということ。
とても実戦的なアイデアのように思えましたが、なかなかどうして、
つねにムーヴ・オンなんてできないさ、と思うのです。