眼はダンス

リオタール『言説・形象(ディスクール、フィギュール)』
合田正人監修・三浦直希訳 叢書ウニベルシタス960、法政大学出版会、2011より抜粋(11頁-12頁)

眼、それは力である。無意識をひとつの言説とすること、それはエネルギー論を省くことである。それは、夢と同時に芸術を殺害する、西洋的ラチオ(ratio)全体の共犯となることである。 …… 絵は、今日の記号学者たちが言っているように読むべきものではない。クレーは、絵は食うべきものであると言った。クレーはまた、絵は見させ、模範的なもののように、能産的自然のように眼に供される、なぜならそれは見ることとは何かを見させるからである、とも言った。しかるに絵は、見ることがひとつのダンスであることを見させる(注8)。絵を見ること、それはそこに道を通すこと、少なくともそこに共同で道を通すことである。なぜならそうすることで、画家はたどるべき道を(側面的ではあるが)強引に整備したのだし、彼の作品は四本の材木のあいだに託されたこのぶれ、眼が再び運動させ生気を与えることになるこのぶれだからだ。『狂気の愛』が明瞭な意識で必要とする、「爆発的−固定的」な美。
 あなた方は、言説とは何であると考えるか。最低位のコミュニケーションを除けば、冷たい散文などほとんど存在しない。言説には厚みがある。それは単に表意するだけでなく、表現する。そして言説が表現するのは、言説もまた自己に託されたぶれ、運動、力を持っており、意味をもたらす地震によって意義の一覧表を隆起させるからである。言説も食うべきものとして与えられるのであって、単に理解すべきものとして与えられるのではない。言説も眼へと訴えかけるのであり、言説もエネルギー論的である……

                       
注(8)ゲオルグ・ムーヒェは次のように語る。「1921年、クレーがバウハウスに入った際、彼は私のアトリエの隣のアトリエに入居した。ある日、わたしはまるで誰かが足で拍子を取っているような、奇妙な物音を聞いた。廊下でクレーに会ったので、何か気づいたか尋ねた。「ああ!聞こえましたか。失礼しました」と彼は言った。「ひたすら描いていたんですが、急に、我慢できなくなって踊りはじめたんです。お聞きになったんですね。すみません。それ以外には、わたしは決して踊らないんです」(, Frankfurter Allgemeine Zeitung, 30 juin 1956)。

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描きながら踊り、踊りながら歌い描いていたパウル・クレー
描くのは左手、書くのは右手、足で拍子をとり歌いながらダンス。描くこと書くこと、歌うこと読むこと話すこともダンス。

ダンスしながら「わたしに与えられたこの感覚はなんだろう」と目を閉じていたら、「あなた、わたしの足を踏んでおられますよ」と言われてしまったりして。ちょーはんせい。