イワシのあたま、ナスのへた

金森修『フランス科学認識論の系譜 カンギレム,ダゴニェ,フーコー勁草書房、1994年
第八章「粘稠なる浮動性――薬の認識論」より抜粋(212頁および213頁)
(初出:『イマーゴ』1993年1月号)

…事実、プラシーボはイワシの頭でもナスのヘタでもなんでもかまわない、というわけではない。それは最大限の<薬らしさ>をもたねばならない。それは非物質的なものがもちうる最大限の有効性を開示する契機ともなる。しかもプラシーボは医者の存在自体にも関わる以上、医者が、当の薬がプラシーボかいなかを知っているかどうかも重要な要件になる。だからこそ、薬物の評価をする際、二重盲検が重要になる。…

…薬は存在論上の堅固性をもたない。その存在は現実性でも必然性でもなく、蓋然性でしかない。確かに化学物質としての薬は、その特性がある程度は規定可能だろう。だが薬は単なる化学物質であるだけでなく、生体と複雑な反応をする物質でもある。…

…そもそも有機体をだますというのは、思うほど簡単なことではない。本当の嘘とはなにか。そして部分的に本当のもの、完全に嘘のものとはなにか。ある人々は、もし心理的要因の役割を正確に知りたいなら、プラシーボは有効成分をなにも含むべきではないと考える。一方ある人々は、そのような無は、馬鹿げた人工的回答しか導き出さないと考える。そしてダゴニェもまた後者の考え方をとる。
なぜなら本当の嘘とは、真理と嘘の繊細な混合でなければならないはずだからだ。事実、部分的な真理こそが、歴史上最も頻繁に使われてきた嘘なのである。だから実践生活における嘘も、治療行為におけるプラシーボも、ある程度の現実的形態を身につけていなければならない。…

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漢方薬をいただいている私には「イワシの頭でもナスのヘタでも」お薬に見えてしまうのですが、どうなのでしょう。
いつだったか「みすず」で読んだエッセイに、戦時でともかく人手も物資もない、治療するにも薬品がない、そんな状況でつぎつぎ担ぎこまれる空襲の負傷者に「緑茶のカテキンには殺菌作用」と茶殻をまぶしていた…とか、そんな話がありました。

それにしても私は、その神谷美恵子さんの脳についてのエッセイでも、練炭で煎った豆を食べ患者さんと同じ病棟に暮らし治療にあたっていたとか、そんな些細なことしか覚えておりません。大川周明の鑑定の話やら、腫瘍が脳の深部にできていた患者さんとご家族の話などもあったはずなのですが(だからこそ「脳について」のエッセイなのであって)、なぜか記憶に残るは茶殻と豆。神谷さんの胃腸は頑健だったのだろうかと気にかかったことも覚えています。…こんな読者もいるのでしょう。

それと同じく、このダゴニェ『理性と薬剤』を紹介しながら薬の認識論をろんじる金森氏の論文においては、私が引っ張ってくるところの「イワシのあたま」なんてのは要点ではないのです。こんな部分ではないのです。引用ってこわいぜ。